抵抗す るフロア

音楽、哲学、アートを探求する20 代前半を中心とするメンバーの視点から、新しい「クラシック」を紹介する連載。どんな歳月にも堪えうるどころか、年を重ねるごとにその新たな魅力を発揮し、暗い未来をいつまでも明るく照らし続けてくれる、そんな「クラシック」を共に探しませんか?
「ダンス」とは、自分を見せることによって相手を見つめ、共に踊ろうと呼びかける運動ではないだろうか。それは固定化された見るものと見られるものの関係、つまり観客と芸術家という区分を融解させ、誰もが共に踊ることを求める力を持っている。「抵抗するフロアー」とは、そんなダンスが持つ力によって解放されたあらゆる場所のことである。わたしたちは、クラブだけでなく、教室や路上でも、踊ることで抵抗する。それは「ダンス」によって共に声をあげることなのだ。

今夜 あの日の歌で
どこかの誰かも 踊ってる気がする
まだ見ぬダンサーが踏むステップ
君に似ている そんな気がする
あまりにも手遅れなことが
うんざりするほどたくさんあるけど
まだ音楽は鳴ってる
僕のところでも 君の街でも
今夜 ダンスには間に合う
散々な日でも 酷い気分でも
今夜 ダンスには間に合う
分かり合えなくても 離れ離れでも
今夜 ダンスには間に合う
何も持ってなくても 失くしてばかりでも
今夜 ダンスには間に合う
諦めなければ
ーダンスに間に合う
街に微かに暴力の香り
DJ が回す ささやかな祈り
ダサいレイシストが寝てる間に
軽やかなステップ 恋人たちは踊る
力をなくした歌はブックオフ
甘ったるいだけの物語はナンセンス
シティ・ポップで行進するファシスト
ぶっ飛ばすビート 恋人たちは踊る
役に立たないミュージック それでも君と
役立たずのミュージック 君と聴けたら
小さな魔法
ささやかな希望
僕には必要
少しの魔法
かけてくれよ 今夜
Magic Number – Magic Number
踊りながら朝を迎えて
君と重いドアを開けたら
同じような一日なのに
ずっと忘れない気がした
ー大切な朝
1
『夜のすべて』
思い出野郎A チーム
2017 年
カクバリズム

『夜のすべて』

等身大の、最低限の言葉が並んでいるだけの歌が、どうしてこんなに胸を打つのか。それはきっと、魂の底からやってきた、文字通りのソウル・ミュージックだからだ。彼らがきっと、逃れようもなくやってくる月曜日の朝を前にしても尚、踊ることが何になるのかを知っているからだ。
ダンスに間に合う、いや、ダンスにしか間に合わない!それでも身体を投げ出せば、そこはフラットなフロアーになる。
これは一瞬で消えゆく享楽などではない。明日には忘れてしまうような一夜限りの夢想では絶対にない。これから何度も越えていくであろう、無限の夜の中の一夜、無限に繰り返されるはずの抵抗の一夜だ。彼らははっきりと抵抗している。” ダサいレイシスト” にも中指を立てる。
音楽なんかに何ができるんだと言う奴らに私たちは、はっきりと彼らのように言ってみせる役目がある。” 僕には必要” なんだと。
音楽と政治は関係ないと言って憚らない奴らに聴かせてやる必要がある。一瞬で世界を全て変えるような力はなくても、それは” 小さな魔法” なのだと。この国にもまだ、こんなに美しいレベル・ミュージックがある。ウンザリすることばかりだけれど、いつだってやめるわけにはいかない。踊ることを。

mishima
三嶋 佳祐
ゆだちというバンドで音楽活動、アルバム『夜の舟は白く折りたたまれて』を全国リリース。音楽、小説、美術など様々な制作活動で試行錯誤。書物、蒐集、散歩、アナログゲーム、野球を好む。広島カープのファン。

『フレンチ・カンカン』

なんで日本以外の映画にはあんなにダンスシーンがあるんだろう。あんな風に踊りたいといつも憧れる。仲の良い人たちとの打ち上げでチェーン店の居酒屋に行くのはあんまり好きじゃない。だってそこには、耳当たりの良いJ ポップが聞こえるか聞こえないかくらいの音量で掛かっているだけだから。本当はみんなが好きな映画や音楽を掛けたりしながら、自由に席を移動して色んな人と喋りたいし、盛り上がってくればみんなと一緒に踊りたい。たまには誰かの家や場所を借りて、自分たちで料理をしてお酒を持ち寄って、映画を見て踊ったり歌を歌ったり、日本式のパーティーを開きたい。
たとえば、フランス映画から『フレンチ・カンカン』(ジャン・ルノワール監督)を見ながら。女たちが踊り・歌うミュージカル映画だ。一八八八年のパリ。「天国と地獄」でも有名な“フレンチ・カンカン”と呼ばれる踊りがショーとして生まれる過程で、若い踊り子と興行師が恋をする物語である。雇った才能のある踊り子に恋をする年上の男という構図は、今の人から見れば「古い」物語のように思えるかもしれない。だけどこの映画がそれ故に今でも感動的なのは、女性が演じること、踊ること、芸術をするということの闘いが、男性の支配から逃れて自らの生を踊りはじめる女たちの運動として刻み込まれているからだ。実は物語としてもそうなのだが、重要なのはやはり画面いっぱいに広がる踊りそのものの解放的な運動である。“カンカン”は長いスカートを大股に開いて踊る曲芸的なパフォーマンスである。その何十人もの女たちの群舞は、画面いっぱいに広がる空間を彼女たちの運動によって占拠し、男の世界の論理なんて忘れてしまい踊り続けるかのようなのである。ただしそれは男を排除するとかそういうことではなくて、ルノワール映画は画面に映るすべてのものを「それぞれの事情がある」と平等に愛し、映画による民主主義を体現しようとしているのである。
あんな曲芸的な踊りは真似できないし騒ぎすぎたら怒られるけど、日本人にも踊る権利はあるはずだから、こういう映画を見て踊りたくなる身体のための場所はもっとあっても良い。とはいえそうでないのならば、彼女たちのように自分たちで「踊る空間」を作り出すべきなのだ。

2

『フレンチ・カンカン』
ジャン・ルノワール 監督・脚本
1955年フランス

p4
三浦 翔
1992 年生。大学院生。監督作『人間のために』が第38 回ぴあフィルムフェスティバルに入選、現在「青山シアター」にて配信中。理論研究と作品制作を往復しながら、芸術と政治の関係を組み替える方法を探究している。

『BPM ビート・パー・ミニット』

私たちは誰もが「明日死んでしまうかもしれない」ということを否定できない。だが、本当にその未来を切実に想像し生きている人は、そうではない人より多くはないだろう。
映画の中の彼らは、残された時間の短さをよくわかっている。ウィルスは今も身体を蝕み、ほんの少し先の未来さえも手にすることが困難なものとしてそこにある。だから教室で話す時も誰かの声を声で遮ったりしないし、ダラダラと休憩しながら話し込んだりしない。彼らにとっては、社会が変わるスピードは遅すぎる。
奪い取られるかもしれない命を前にして、私たちはどこまで切実に、彼らのように声を上げられるだろうか。
人は何故フロアーに立つのだろう。クラブで踊り、教室へ向かい、路上に立つのだろう。何故そこへ身体を投げ出すのだろう。
変えたいものがあるからだ。今この瞬間にも奪われてしまう命があるからだ。この怒りを絶対に見失ってはならない。いつだって命を奪われるのは、偶然、私の隣にいたあなたかもしれないし、あなたの隣にいた誰かかもしれないし、誰かと一緒にいる、あなたかもしれないのだから。この怒りを忘れない時、たまたま隣にいた誰かを愛する時、私たちは、彼らは、ここにいる。
そう、人は何故フロアーに立つのか、ではない。私たちが怒りを忘れない限りにおいて、私たちが立つ場所はいつも、抵抗するフロアー” になる”。この映画はそれを、痛いほどに教えてくれる。

4

『BPM ビート・パー・ミニット』
ロバン・カンピヨ 監督・脚本
2017 年フランス

mishima
三嶋 佳祐
ゆだちというバンドで音楽活動、アルバム『夜の舟は白く折りたたまれて』を全国リリース。音楽、小説、美術など様々な制作活動で試行錯誤。書物、蒐集、散歩、アナログゲーム、野球を好む。広島カープのファン。

『ニグロ、ダンス、抵抗― 17~19 世紀カリブ海地域奴隷制史』

黒人たちは当時、砂糖と綿花と同じものとみなされていた。売買される商品、つまり奴隷だった。白人どもは黒人たちが部族ごとに団結することを恐れていた。彼ら彼女らは一人ひとりバラバラに運ばれた。肌の色は同じでも、話す言葉は違っていた。黒人同士でのコミュニケーションは不可能だった。そう思われていた。白人たちによって。しかし黒人たちはダンスした。
ダンスはプランテーションでのストレスを癒すための一月に一度の娯楽であるだけでなく、分断された黒人たちを一つにまとめ上げるための新たな創造であった。焚き火を囲う簡易的なダンス・フロアは逃走の場所であるだけでなく、身体表現によるコミュニケーションを可能にし、それによって抵抗を準備する闘争の場所でもあったのだ。

5

『ニグロ、ダンス、抵抗
―17~19 世紀カリブ海地域奴隷制史』
ガブリエル・アンチオープ
(石塚道子訳)
人文書院 2001 年

「今夜はブギー・バック (smooth rap) feat. 小沢健二」
『THE BEST OF スチャダラパー1990~2010』

ここで、とある黒人奴隷の子が思い起こされる。彼はVooDoo(その呪いのダンスはときに武術の体得にも役立った)から発した独立運動を指揮し、ついには世界で初めての黒人革命であるハイチ革命を成し遂げ、のちに黒いジャコバン、あるいは黒いナポレオンと呼称されることになる。名をトゥサン・ルベルチュールという。彼はダンスによる革命が可能だということ、その一例を、世界で初めて歴史に刻み込んだ一人なのだ。
その革命家の末裔たちこそが、のちにレゲエを、ブルースを、ジャズを、ヒップホップをありとあらゆるブラックミュージックを生み出していったということを確かめるには、ボブ・マーレーの背後にプランテーションの奴隷の格好でコーラスする女性たちを認めるだけで十分だろう。
ところで、わたしたちの日本にその末裔は果たしているのだろうか、と問うてみたとき、少しだけ戸惑ってわたしはこの曲をかけるだろう。3 人が白いプラカードに「とにかくパーティを続けよう」と表記して真剣にこちらを眼差したのは、あの震災のすぐあとだったのだから。

6

『THE BEST OF スチャダラパー
1990̃2010』
スチャダラパー
tearbridge 2010年

mishima
牛田悦正
1992 生。Rapper。ヒップホップバンド「Bullsxxt」のMC。1st アルバム『BULLSXXT』を10/18 に発売予定。著書多数。

「ダンスとは反逆することなのだ。ダンスとは中立的な紐帯ではない。ダンスは、思惟や人間的な感性を欠いた身体的なねじりやよじりのたんなる帰結ではない。踊り手はただの消化器官ではないのだ。人は踊りに誘われ、とりわけ自らをそこに誘い入れる。ダンスは閉鎖した秘匿空間であり、そこで人は自己存在を明らかにし、深奥の自己を露にする。ダンスとは、語ると同時に自己に語りかけるということなのだ。この行為をなすために人は、路上、劇場、祭などの場所を選ぶ。この表現の場は合法あるいは非合法の場合もありうる。ダンスとはひとつの場所化された空間であると言えよう。内に向かうと同時に外に向かうこの場所はとてつもない力を内包する。
ダンスがこのように内破し、外破する力の場所として出現するがゆえに、ダンスは奴隷制社会の空間を管理することになったのである。ダンスは圧政と抑圧の奴隷制社会の調整機能における重要な要素であった。アメリカ、アフリカ、アジア、ヨーロッパのどこであろうと、奴隷は語りかつ自己に語りかけるために踊った。ここで言う奴隷とは、すなわち他の人間存在が彼あるいは彼女から自由を盗みとることが可能であると思い込んだが、けっして隷従や忍従の道を選びはしなかった人間存在のことである」

ガブリエル・アンチオープ『二グロ、ダンス、抵抗 -17̃19 世紀カリブ海地域奴隷制史』(石塚道子訳)、人文書院、2001 年。


PEOPLE :

フリーペーパー・ディクショナリー
サポーター&配布ネットワーク募集