後藤正文 vs 花房浩一

インタビュー構成・写真 桑原茂→
ページデザイン 池上祐樹

花房 この前の国会正門前、生きてたら清志郎は絶対ここにいるよって思いました。かといって、その役回りを誰かに期待するのも間違いだよね。彼は彼のことをやっただけだからね。少し話を戻すんだけど、ミュージシャンが公の場で社会的・政治的なことを語っちゃうとリスナーが真に受けて右往左往してしまうって、いろんな人が言う。あの言い方って、ほんとにむかつくんだよね。大衆は馬鹿だということを暗に語っているようなものだからね。右向けといったら右向くんでしょって。傲慢だよ。お前は何様だよって。日本でのフェスもそう。お客さんをコントロールしなきゃいけないなんて、バカなことを言ってる。自由だからこそ何かを作っていける。安全管理とかなんとか言うけどさ、自分たちの人生や自分たちの命は自分で守るし。そんなの当たり前のこと。その逆を当たり前と思わされている日本のほうが、よっぽどおかしい。

後藤 ぼくも言われるんです。“後藤さんの言うこと真に受けちゃう人がいたらどうするんですか?”って。いやいや、何も考えない人はデモに行きませんよ、あんなくそ暑い中。(笑)

花房 そうだよね。(笑)そう。逆に言わないことのほうが不自然だね。言わないことで不自然な自主規制が始まっちゃうんです。それはいろんなメディアで起こってることだよね。うまく利用されているってこと、まず理解するべきだと思うんです。意見自体は、間違ってもいいと思う。すべての人が同じことを言っていたら、それこそおかしいんだから。私はこう思う、私はこう思うっていうののつきあわせがあって、発展していくんですよね。ミュージシャンの影響力についてどうのこうの言うのはやめにしたらいい。おまえそんなに影響力ないから、とぼくは言ってます。(笑)

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後藤 ミュージシャンは過信され過ぎている気がしますね。

花房 SEALDsの動きだって、とんでもないことになっている。たかだか数人の子どもたちが始めたことが集積して波及していっている。でも、まだそれも始まりなんだと思う。

後藤 党派がないのがいいですよね。考え方の違う子たちが集まって一つの問題について話し合ってああいうムーブメントになっているのが、すごくいい。“共産党がやってるんだろ”という人がいますけど、そうじゃない。個人の考えていることがありながらも一つの場所に集まって、そしてまた日常に帰っていく。それが、すごくいい。

花房 よく言われるんです。デモに行って何が変わるのって。そりゃ一発じゃ変わりませんよ。みんな分かっている。でも、政府を具体的に変えさせるためにずっと模索している。それは、組織のための運動ではなく、私のための運動です。私が自由になりたい、私が平和に生きたいという運動が途切れずに持続しているんです。当然ながら自民・公明は法案を通しますよ。でも、それで終わるわけではない。次の動きをどうするか見据えているんです。
あとね、話が戻っちゃうけど、80年代にロンドンでミュージシャンと政治の関わりをレポートをしつつ、当然、反核・原発のことも話していた。でも、結局ぼくは分かっていなかった。爆発したらどうなるか、セシウムのこと、理解していなかった。感覚だけだったんです。持続もしなかったし。ぼくの世代はそれに対する反省がある。あのとき、もし、ぼくらがもっと突き詰めていたら、福島は起きていないはずなんです。……よく言われたんです。福島が起きたとき。ざまあみろと思ってるんでしょって。自分たちが主張してきたことが正しかったと証明されたと思っているんでしょって。逆。全く逆だよ。泣きたいくらいに申し訳ない気持ち。なぜ、あのとき、止められなかったんだろうって。今も10数万人位の人が故郷を追われている。放射能に怯えて生きている。それもなく済んだはず。

後藤 第一次安倍政権のときに、福島の電源の問題を共産党に質問されて、安倍は「大丈夫だ」と言いました。そんなことは起きないと言いましたからね。

花房 その責任、とってないからね。

後藤 だから、今の安倍政権の間に、彼らは問題の責任を果たすべきだと思うんです。責任を取れないと思うし、辞める以外に責任の取り方もないでしょうけど。原発と基地の問題は似ていますよね。「Not in my backyard」です。ゴミ処理場の問題、産業廃棄物の問題も一緒。みんな要らないものを自分の周囲から排除したいという発想が引き起こした。アウトソーシングしてきたんですね。火葬場も、屠殺もそう。一時期、肉食うのやめたんです。(笑)

花房 そうなの。(笑)

後藤 なんでかって言うと、自分の手で殺せないものを普段食べてるのって、すごい変な話だよねって友だちと話して。鶏くらいは殺せるんじゃないって話もしましたけど。でも、肉を食べないと体力の回復が厳しいねってなったんですけど。まあ、とにかく何でもアウトソーシングしてきたわけです。さかのぼればそれは民俗史の問題。穢れの問題にたどり着きます。都市ができるときに死を外側に出して、穢れをどんどん外部化した歴史ですよね。それは差別の問題にもたどり着きます。そして、都合のいいことを権力の側が書き綴る。震災でも、いつか教科書では「復興しました」という見出し一行になる。政府がやった横暴は絶対に残らないですよ。だから、俺たちは俺たちの民俗史を書き綴らないと駄目だぜ、と思うんです。
俺たちは東北に行って普通の人たちの言葉を集めないといけない。宮本常一さんとか柳田國男とか、民俗学者がやっていたみたいに残さないと、なかったことにされてしまいます。これってパンクだともと思うんです。ミュージシャンの役割って、そのように捉えることができると思うんです。ポップ・ミュージックの祖先は、吟遊詩人のような人たちなんです。調べると、彼らは荘園を渡り歩いて、どこどこで戦争が始まったよ、と伝えていた。口述のニュースペーパーの役割を果たしていたんですね。ということは、ロックミュージシャンそれぞれがメディアになって情報を伝えればいいじゃん、そんなふうに思いました。新聞を作ったり社会的な発言をしてたりしている自分の行動も、歴史的に肯定されたって思ったんです。(笑)

花房 歴史の話で言うとさ、世界中の音楽には、その何千年という歴史が凝縮されているんですよね。権力者たちが作った歴史はさておいて、ぼくたち自身が音楽のルーツをきちんと注目することで、ぼくらの音楽の歴史が、そこに立ち現れると思うんです。だから、ぼくたちがどうするかが一番重要。で、そのときに、ものを見る力、ものを聞く力がとても重要になってくると思うの。アイリッシュの詩人の詩にエディ・リーダー(*フェアグランド・アトラクションのヴォーカルで、バンド解散後ソロで活動を続けるシンガー&ソングライター)が歌(What You Do With What You’ve Got)をのっけたのがあって、すごく好きなんです。「耳があるのになんで聞かないの? 目があるのになんで見ないの? あなたの足は逃げるためだけにあるの?」音楽もそう。リズムがあって、その裏にものすごい世界が広がっている。自分がどう接するかによって、その裏にあるものがどんどん見えてくる。一つ新しいものが聞こえると、全く違って聞こえるようになったり。そんな強さがアートにはあるんだよね。

後藤 ぼくは聞き手を信じている音楽が好きなんです。ぼく自身、ボブ・ディランの歌詞を読みながら考えるのが好きですね。受け手として、優秀でありたいと思う。一方で、聞き手を馬鹿にしている音楽ってのは確かにあるし、馬鹿にされているなって思うことがありますね。テレビやラジオをつけたときに、チラッと耳にしたりする。このくらい歌っとけば感動するだろう、みたいなの。それだけは絶対やるまいと思っているんですけど。

花房 あらかじめ用意されているみたいなのね。

後藤 なんかね、俺が知らないところで参考書でもあるのかなって。「こういう歌詞書いとけば、みんな感動するだろ」みたいなの。マル秘で(笑)。

花房 俺さ、マヌ・チャオとかがすごい好きで。でも、言葉は分からないんですよ。スペイン語だったりフランス語だったりだからね。でも、歌っていることはすごいシンプル。シンプルなんだけど、聞き手によって歌が意味づけされるんですよ。その力はなんだろう。聞いている人たちは、何となく楽しんでいるだけのようだけど、頭の中で歌の意味を創造しちゃっている。というか、意味を作らされられるんです。ミュージシャンの側が意味を作らせるパワーを持っているんですね。それが天才的なことです。おそらく、すばらしい音楽ってほとんどがそういうものを持っていると思うんです。ボブ・マーリー、ボブ・ディラン、ぼくなんかだと、ザ・バンドとかね。

後藤 アートに接した時って、言葉に置き換えられていないだけで、伝わってくる情報量はもっと多いはずです。言い換えられないけど分かる、っていう感じ。

花房 そうなのよ。日本のあるバンドと、2002年にヨーロッパを旅したんです。お客さんは英語もしゃべれないし、日本語なんて分かるはずがない。イタリア、スペイン、フランス。でも、お客さんが歌い出すんですよ。何かがそこで伝わってるんですね。逆に言えば、俺たちもそうだった。洋楽初めて聞いたとき、分かるはずないじゃん。Blowin’ In The Windって言われても、まあ、単語の一片は分かるにしても、まあ、何を歌っているんだか、何も分からないわけですよ。でも分かる。これが本来の言語なのかなと思う。


フリーダム・ディクショナリー
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