未来へ向かう・インタビュー1 構造を計画する、 結果を自由とする 遠藤治郎 建築家

coverphoto. warehouse party at クラブチッタ川崎 1990
インタビュー構成・写真 桑原茂→  ページデザイン 小野英作

桑原 クラブチッタでの日本初の「ウェア・ハウス・パーティ・warehouse party」(1990 年代、あらゆるダンス・ミュージックの震源地)、2時間押し、3時間押し、あれは日本のクラブカルチャーの歴史の1コマを作った、前代未聞の空間演出だったよね。ぼくの中ではあのときが遠藤君の照明家としての鮮烈なデビューだったわけだよ。

遠藤 そうでした(笑)。

桑原 2時間も待たせて、djたちも血気盛んな時代で、しかも場所が川崎だけにヤクザとの揉めごとでも始まったらイベントはそれ一発で終わりだから、ハラハラする夜だった。あの演出で忘れられないのは、真っ暗闇のホールに全員入れて──あのときは800人くらいいたかな、一気に電気のスイッチを入れたらブラック・ライトがパンパンと入っていくと同時にレーザー光線が、ビューン、ビューン飛んで、観客がそのたびに歓声が上がって、だけど、本物のレーザー光線じゃなくて、実は蛍光ゴム紐を張り巡らしていた。あの遠藤君の演出は鮮烈だったよね。(※coverphoto)

遠藤 もとは代ゼミの造形学校というところにいたんだけど、芸大美大を受けるところね。その造形学校のお祭りで友だちと一緒にやった感じの演出だったんです。

桑原 すでに実験があったんだ。

遠藤 ものすごく小さい規模ですけど。で、さらに武蔵美の芸祭で拡大もしてて、そのときのメンバーでクラブチッタも設営、ぼくのものというわけでもないし。ぼくはキャラクターもあってそれを広げる機会があったということだね。でかくしていっちゃう体質。

桑原 天井高が10メートルという恐ろしい足場で幾つかの美大の素人の学生さんたちが協力して空間を演出したという意味でも、日本のクラブ・カルチャー創世記のエポック・メイキングな出来事だったよね。

遠藤 あのころ、社会は大きくはバブル。で、そのなかでぼくたちは逆ふりをしているんですよね。無茶をし、DIYをする。そこで反転するものがあったのかもしれません。2時間待ちって言っても意図したわけじゃなく、単純に収まんなかったんです(苦笑)。素人でまったく経験がなかったから見積もれなかったわけですね。結局、それを最後まで笑っている度量のある大人たちがいたわけですよ。それが茂一さんだったし。大人が「やらせちゃおう」と考えて、「失敗うんぬんじゃなくて直観でぽんとやっちゃおう」と若い人に言う。ぼくは出会えていたんですね、そういう大人たちに。タイに行ってもそうだったんです。経験もないのに照明をやらなくちゃいけなくなって。

桑原 そのときは設計家として参加したの?

遠藤 いやいや、ステージと照明両方です。

桑原 バンコク?

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02. Very Common of Modern dog at バンコク 2002 年/ステージ全面砂利敷きの「外部」空間をつくり、そこに家具を配して壁のない住空間をデザインし、バンドはチャプターごとにその「部屋」を移動する。500 個の電球をアーティストの至近距離に構成することで舞台照明としている。

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03. Zsee concert at バンコク、2003 /タイの小室+小西÷ 2 といったプロデューサー/ DJの為のステージと照明のデザイン。
70m 間口のdj 台がステージの前面で、奥行き4.5m に様々な高さを設定した。

遠藤 そうです。バンコクでの最初の仕事で2002年の終わりにModern Dogというバンドのショウをやって(※写真02)。そのときは舞台照明の経験がなくて照明のことが分かんなかった。建築やっていたから電気は分かる。光ってのは距離の二乗倍へたってくる。二乗倍近づければ明るい。近づければ40ワットの明かりがあれば十分に明るい。そういうことは分かっていた。それで電球を5~600個準備してチャンネルに分けて繋いで、というめちゃくちゃDIYな方法で。施工に一週間かかりましたね。 タイという場所がぼくにフィットしたのは、その寛容さです。失敗を恐れないメンタリティ。日本でのゴールというものは「問題がないこと」。「間違いないこと」それが最終ゴールなんです。で、ゴールに達してから初めてものを喋ることができたり、楽しめることが待っていたりする。ゴールに達してからじゃないと誰も話を聞いてくれない。それがまたすごくプレッシャーになってしまっている。それに対して、タイはピークを出すこと。その瞬間どれだけ楽しいことがあるかが、日々のゴール。だからタイ人はちっちゃいことは気にしないんです。二つ目の仕事のとき(※写真03)、一週間前に業者がいなくなっちゃったというのがあった。LED600本くらい使う予定だったのに。で、どうしようってなって。そのときのプロデューサーがテレビ局のエンタメやっている照明会社を唯一見つけたんですよ。で、見つけてきたんですが、ムービングヘッドが60台っていうものだったんですよね。

桑原 ムービングヘッド?

遠藤 照明機材ですね、首が回るやつ。ムービングヘッドをぼくは触ったこともなかったんですが、ぼくしか曲を分かっていない。一応、プログラマーの人は来てくれることになり、タイ人の友人に英語通訳してもらい。2時間以上のショーだったので、まあプログラムのうち3割くらいしか終わんなかった。ぼくとしてはドテンパっているわけです。寝てないしプログラムも終わっていないし。どうするべという状態です。日本だったら全員が白い目で見ている状態ですね。誰も声をかけてくれない。なんか素人がやってるよねというふうに。つまり、潰されちゃう。そういう隙を見せてしまえば、当然仕事としてアウトです。でもタイは違って、そのドロドロのところに、舞台監督がにっこり笑って「楽しんでいこうよ」と手を出してきた。さらにそこにいた日本人のミュージシャンの友だちも同じようなことを言ってにっこり笑った。人がやばいときに落とさない。すごい救われました。ぼくは100点とれないタイプの人間で、日本社会で辛い思いをしていたけど、マインドを切り替えられた。踊りながら卓をいじっていた。入っているプログラムをライブでプレイして、もうスクラッチです、「じゃあこすればいい」っていう発見したんです。のって曲との関係でこすって、結果見たこともないものができて乗り切れたんです。お客さんも良くてね。日本にいたらぼくは自殺していたんじゃないですか、翌日に。段取り悪いとかといったマイナスポイントがくさびのように刺さってしまってね。だけど、ぼくはタイで、おまえがやると面白そうだからやろうよ、と頼まれてやってきた。違うフィールドの素人なのに。外国人なのに。ぼくは幸いにしていろいろな空間をすでにやっててポートフォリオがあったのもあるけど。あと運が良かったんだろうね。茂一さんがやってよと言ってくれるみたいに、ちょうどそういう感じのタイ人が多かった。知り合ったばかりの外国人にぽんと投げるなんてリスキーなこと日本ではやらないですよね。

桑原 その2002年にバンコクに行った時がいくつのときかな?

遠藤 36です。今が50才です。ハーフセンチュリー。ぼくが茂一さんに会ったのが21くらい。大学二年のときです。あれから30年くらい経って。

桑原 何も変わってないけどね。目つきも顔つきも体つきも。不思議だね。タイの前にオランダに行ったんだよね?

遠藤 いや、スリランカ。

桑原 そうだ、スリランカだよね。スリランカに師と仰ぐ建築家がいたんだよね。

遠藤 そのときはジェフリー・バワ(Geoffrey Bawa1919–2003 スリランカのコロンボ出身の建築家。)がぎりぎり生きていたんです(※写真04)。そこからさかのぼること7年前にも会いに行っていたんです。で、またいつか会いにいこうと思っていて。行ったときは口もきけない感じで、前会った時は喋れたんだけどね。ぼくは国立大学で唯一建築学科があるところで、名誉助手という謎の無給の仕事でビザをもらってリサーチャーとして行きました。そしてその大学で教えたりして。インテンショナリーズを始めたのが30か31で、2年半やって、出た。で、オランダに3年いて……。

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04. Geoffrey Bawa のコロンボの自宅のファサード

桑原 オランダに行くときに結婚したんだよね。

遠藤 そうそう、結婚して行きました。

桑原 結婚式に出たので覚えている。

遠藤 で3年目のオランダで別れることに、いろいろあって。

桑原 スリランカも一緒にいたの?

遠藤 ちょっとだけですね。

桑原 スリランカで暮らすのは大変だったと前の奥さんから聞いたけど。

遠藤 スリランカは大変ですね。内戦していましたからね。

桑原 遡るとオランダでもう一度建築の勉強を?

遠藤 理由が2つあって。オランダがもっとも建築で熱かったので元妻が行きたいと言っていた。ベルラーへというリベラルでアカデミックな学校で、そこに彼女が願書をだして、それが通った。じゃあ向こうで子ども育てしよっかとなって。ぼくはイクメンになろうと。だからスタジオにベビーベッドを置いて、ぼくも聴講して、子どもの面倒を見ながらサポートする。だから2年間はジョン・レノンもどきの生活。学校すごく面白かったので、ぼくも願書出して1年だけいた。だから卒業できてないけど。スリランカに行くというのもあったけどね。主夫—学生—主夫という3年間、というのがオランダでした。東京で建築ブームもあって、取り残されている感じがあって、ぶっちゃけ焦っていましたけどね。

桑原 インテンショナリーズもバブルとともに一世を風靡したものね。(※写真05)

遠藤 会社はバブル後から始まっていますけどね。隙間産業的にDIYをミックスするようなもの。音楽が先生なんです。ファッションなり。どう建築村に留まらずカルチャーと触れて横断していくか。ということですね。

桑原 インテンショナリーズが1996年ですかね。

遠藤 そうです。96年設立。今年20周年ですからね。ぼくが出たのが98年の終わりに日本を出た。最初は大変だったけど。でも10年後が見えちゃった。最大限うまくいってこういうのだというのが。シミュレーションができちゃったんですね。

桑原 子どもの頃からそういうものの見方をするの?

遠藤 そうですね。歴史って結局過去を見ることが未来を見ることだから、そういうのが基本的にはあるんじゃないでしょうかね。

桑原 あの時代の東京から飛び出してオランダに行き、スリランカに行くというのはなかなか冒険ですよね。

遠藤 その設計はもともとあった。けど、きっかけは、元妻の幹子ですね。オランダに行くというシナリオは、ぼくにはなかったんです。アジアに行くというシナリオはあった。世界を旅しながら食うというのが不可能なのか、試したいという夢があった。英語も喋れないけど、どこかでルーティンを断ち切ってゼロから始めなきゃいけないだろ、と思っていた。そのきっかけをくれたのが彼女だった。

桑原 それが結婚だった。

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05. 表参道ギャラリー・ロケット 1997

遠藤 そう、結婚。それはオランダに行くということとセットだから。大きいディレクションはあるんだけど、でも僕の計画は、想定外を得る為の計画なんですよ。さらに言えば、計画というよりか機会がきたときにバーンと変える瞬発力みたいなものを信じています。タイに移住したというのもタイで一緒にやっているジャックというヤツがいるんですけど、彼のお父さんが亡くなったというのもあって行く機会があって、で、行ってみたらやばい。ぼくのセンサーが「ここキテる!」ってなりました。70年代の東京の感じかなあ、完全に現代でもあるんですが。コミュニティはすごく小さいんですよ。かつての坂本龍一さんやユーミンや山下達郎さん、そういう人たちのコミュニティってわりと小さいですよね。その小さいコミュニティに全ジャンルの人がいるわけです。写真家、映画監督、キュレーター、詩人、遊び人、金持ち。そういう人たちが集まっていて、カフェソサイエティというか。そこにぼくがスパッと入っちゃったんですね。で、知り合いになって。そいつら、今はすごくいいポジションにいるわけです。そういう嗅覚はあるんですよね。これは面白いと思って。みんな英語が喋れてすごくオープン。ぼくもオランダ、スリランカで多少英語が喋れるようになっていて、それでタイに行ってコミュニケーションが直に取れるようになった状態だった。未来のあるいは旬のアーティストたちと仲良くなったんです。ここは化けると思った。

桑原 日本人に対してタイは開かれている?

遠藤 タイは東南アジアで唯一植民地にならなかった国ですね。ですから外交に長けています。日本が来ればイギリスフランスと付き合いながら自分の宿敵ミャンマーを攻めさせる。サポートは当然する。で、巧妙に半植民地になりながらも植民地にならずに独立国家であり続けた。日本のゼロイチ外交とは真逆。ちゃぶ台ひっくり返すかどうかみたいなものとはワケが違う。洗練されていて強い。それと仏教カルチャーというかタイのカルチャーは、ぼくにしてみれば、最高なんですよ。みんな基本日本大好きですね。暮らすのはタイのほうがいいとおもってますが(笑)。

桑原 それはヨーロッパを経験したから余計に感じたのかな。

遠藤 そう、日本からタイに行く人は批判的になる人もいるんですよ。だらしねえとか。でもぼくはヨーロッパに行って、それからスリランカに行った。スリランカも仏教国でそこからタイに仏教は伝わった、という国。ポルトガル、オランダ、イギリス、3カ国から400年くらい植民地支配を受けた。だから、植民地になった国がどれくらいダメージを受けるか。メンタリティ的にも。タイに来てそれをものすごく感じましたね。

桑原 そこに師と仰ぐ人がいたわけだよね。

遠藤 あり意味、真のポストモダニストだと思っています。ポストモダン論ということではなく、本当に自由にあらゆる要素を混ぜていくんです。磯崎さんみたいに建築政治的な理由でギリシアからこれを持ってきたとかという保証された理由をつけてくるのとはまた違う。茶に似ているかもしれない。茶で、今日は何の日だからということでこの壺を持ってきてというコンテクストを編集していく意味のコラージュというのがある。それは保証された百科事典というかアーカイブと定義があって成立しているんだけど、彼の場合はもっと自由。ポストモダンが来る前から、あわせていく発想があった。自由に好みのものをリミックスしている。モダンなものもローカルなものも関係ない。すごく自由なカットイン、カットアウト。それについて、言葉で説明しない。すごく心地よい。彼の作る空間は、内部から外部までどんだけ不明領域を作るかが考えられている。完全な内部なのか半内部なのか半外部なのか、不明瞭域が作用して、全部をつないでいく。行き止まりがない。外にいるようで内部のようで。空間を作る喜び、光と風と、その喜びを最大限にできる人です。手法はモダニズム、古典、あるいは彼自身の背景も入っているでしょう。スリランカはシンハラとタミールがメインだけど、彼はいろいろ混じっている人。

桑原 海外にも住まわれていた?

遠藤 えっと、イギリスのAAスクールにたしか40歳近くくらいから行っている 。

桑原 ?

遠藤 とんでもない金持ちなんですね。ロールスロイスでスクールに通っていましてね。

桑原 え?

遠藤 もともと弁護士で。ゲイで。

桑原 へー!

遠藤 スリランカもゲイ帝国ですから。アーサー・C・クラークも若い男が好きだからあそこにいたとか。ビーチボーイズもいっぱいいるし。

桑原 内戦しているときによく行きましたよね。

遠藤 でも、そんなところでも、そこに暮らしがあるわけですよ。外務省が出した危険情報っていうのもまた適当なもの。暴動が起きたときにいた日本人に聞くと、序列があるんですよ。官僚、大企業、一般人。助ける順序があるんです。そういうことを経験できたのもスリランカです。それぞれにカルチャーというものがあります。オランダは「辞書を作る」、「ものを定義する」というカルチャー。what とwhyを徹底的に聞く。アイデンティファイする。IDというのは最新の判決であり、更新できるというのが前提です。断定しなければ次の更新はできない。だから断定する。だから西洋人はテイクサイドできるんですね。アジアは断定しない、絶対はないよね、という。西洋は先に進むためにあえて断定をする。これはいいカルチャーですね。だからサイエンスが進んだ。アートにしても、辞書を書き替える、歴史を、人の知覚を開いていく。そのアーカイブを作ることもセット。それが西洋のすごいところ。物事の実態が先にあって、調べることがあって、定義はあとなんですよ。本当に早いものは定義の先にあります。アカデミックの限界は後追いということです。だから、両者のバランスが大事です。タイの学校で7年間教えてきましたけど、ロジカルな見方も教えてきたけど、タイ人としてタイを見るために、と言う点を大切にしていた。タイで自然発生しているカルチャー、まだ定義がなされていないタイ自体の実態に目を向けることが大切。両方大切なんですよ。日本だとどうしても「西洋と日本」「アメリカと日本」、というふうに一対一関係で見てしまう。意図的に最低3か所、4か所、で見ていけば、常識が一個に固定しなくて済む。もっと頭を自由にできるんですね。「本当? それ以外の答えはないの?」と疑う。参議院選挙で若い層の40%が自民党に入れたというニュースがありましたね。感覚としては就活とかと変わらない。どの車を買おうかとかと同じ。大企業ってなに、とか働くとは何とか、そういう根本的なことを考えていない。なんだろう?ということをトレーニングしていない。解答通りのことをずっとやってきている。選挙は解答がないもの。それでとりま、自民党、ということになるんですね。解答がないのが当たり前。あと、その解答は今ここでしか有効でありえない。そういう観点も大切です。そういうことを歴史から勉強していない。約半世紀前までは黒人の選挙権がなかった。たった何十年前のことです。70年前となれば、一億火の玉、日本人が特攻をしていた──当時の日本はいわばISなわけです。簡単に変わっていきます、時代は変化するもので、安定しているものではない。そんな中で、「自分の頭で考えろ」ということです。基本的な学問の態度はそうです。アカデミックとは物を疑うためにあるわけです。ぼくは楽しいことを知らせてもらった人生だった。ピンクフロイドのコンサートを日本で見て、頭を打たれた。人生を変えられた。こんだけ衝撃を与えられて、自分も何かして社会に返さないと、と思った。感謝があります。それを伝えたくてピンクフロイドのコンサートを作ったマーク・フィッシャーに会いに行きました。入れ違いで東京へ行っていて会えませんでしたが。ぼくはヒーローを見つけるととにかく会いにいっちゃう。

桑原 マーク・フィッシャーがヒーローだったのか。

遠藤 10代後半の時のヒーローがマーク・フィッシャー、だから建築をやろうと思った。彼はU2のコンサートをやり、ベルリンの壁のコンサートもした。舞台美術ということではなく建築として表現をしているバックグラウンドがあるんです。建築は機能があるから、ただの「美術」ではない。イベント・アーキテクチャーというものは仮設、作ってバラすわけです。寿命が違う。ヨーロッパの建築物は100年単位。日本で100年超えているのは数少ない。法隆寺とかとんでもないのもあるんだけど。建築という概念は、プログラムみたいなもの、構造と仕組みで形をつくる行為で取り扱う寿命はいろいろです。名を遺す人はその概念を拡張した人。

桑原 デザイナーと言う肩書きは建築家よりも自由?

遠藤 ライセンスがない点ですね。医者も弁護士もライセンスがベースですよね。建築はでかすぎて膨大な業務が必要。ある程度コンパクトな建築、集約的なイベントがぼくには合っています。神が下りた瞬間とかあるじゃないですか。コンサートで、オーディエンスも、バンドも、何かが来た、という瞬間。あの瞬間にどれだけ一緒に立ち会えるかという思いがぼくにはあるんです。本当のところを言うと、ぼくは音楽家になりたい。だけど才能がないから音楽の周りにいた。音楽は最高に不必要で最高に必須。照明をライの一部としてオペレーションするのは、バンドの一部。ジャムなんです。フリースタイル。それがうまくいくときもあるしいまいちのときもあるし、めちゃくちゃギアが入ることもある。結果、再現性が弱いけど打率上げていかないと!

桑原  50才の遠藤治郎が今どこにいるのか、ようやくつかめました(笑)。

遠藤 長期的に重要なのは経済がドライブしているという状態。それがないと広がらないですよね。ワクワクするもの、「やべえ、あがった」というものを自分が必要としているし、できる限り広げていく。いろんなタイミングで量産してくつもりなんです。インフラが整っていなければいけないし、仲間を募らなければいけない。始めたばっかりです。でも、始めるとどうなるか、一年たてばどうなるか、は分かっている。何度もゼロから始めているので、分かるんです。タイだってベースがあったわけではないですしね。

桑原 今一緒にやっていけそうな人の名前を具体的に挙げると?

遠藤 一緒にやってゆくというのもおこがましいので、人として魅力的という意味では、奥田くんとか、SEALDs周りとか。三宅洋平さんもそうですし。彼はちょっと話しただけですけれども。あとは映画『戦争のつくりかた』の丹下さん(NOddIN)とか。

桑原 それは映画を見たから?

遠藤 いや、それ以前から知っていて、気になって調べたんです。実はSEALDsのサポートしてたとか。いろんな思いが見えてくる。

桑原 なるほど。

遠藤 タイで7年間先生やってきて、プロフェションとして自信もあるし、何をすべきか、何が変えられるかも日々考えています。人にコミットしていくということです。タイのシーンも変えてきたけど、今度は人を育てていくということ。人を作っていくことで変えていくということです。教育が日本を破壊するように教育が日本を救う。教育って何かというと「疑う」ということ、それから自分が信じていることをシャープに明確化させることにフォーカスして説明していくということ。西洋的な方法ですけどね。そこまで言葉を磨きな、ということです。そういう話をねちねちやっていきます。ぼくが昔からやりたいと思っていることは、でかい船を買って、一種のピースボートみたいなもんですけど、世界を周るカーニバルシティなんですよ。で、世界中に行って寄港した先にシティができる。カーニバルシティ。サーカスの船版のようなもの。

桑原 良い話じゃないですか。

遠藤 これは大学の頃からやりたいと思っていて。フェリーニじゃないけど、サーカスみたいにやってきていなくなるというのが大好きなんですよ。

桑原 (笑)。

遠藤 ふるさとという概念は、ぼくにとって、どんどん変わっている状態。東京生まれだから。バンコクもそうですけど、がんがん変わっていくけど、ただ、全部は変わらない。残っているものもあるし。そういう状態がぼくのふるさとです。運動している状態。時間が動かない場所は辛いんです。超マイノリティですよね。

桑原 大型バスを手に入れたとして……。

遠藤 それはすでにタイでやっているんですよ。(※写真06)

桑原 へえ、そうなんだ。

遠藤 モーラム・エキシビション・バスツアーというもので、エキシビションが入って、それはジム・トンプソンと一緒にやったんだけど、トラック1台とバス1台でバスの中はモーラムというレベル・ミュージック、演歌というか民謡みたいなもんだけど、当時共産党もくっついていて、逆に政府も活用していて、非常に複雑な背景がある音楽でした。一時は政府の禁止も入ったし。

桑原 反抗音楽ということですよね。

遠藤 はい、そうです。だけど、大衆音楽なんです。トラックはステージなんですよ。止めてそこがフェスティバルになる。音楽祭も行くし地方の役所の前にも留まるし。ぼくはその設計をさせてもらった。好きなかたちが実現しています。やや政治も入り、アートで、エンタメで、という。全部オーバーラップしています。

桑原 タイの人たちの思いを遠藤君が増幅させる。

遠藤 そうですね。

桑原 選挙で言えば、たとえばタイに三宅洋平のような人がいればそれを応援する気持ちがあったということですか?

遠藤 政治はそこまで強くは入っていなかったですね。タイは複雑で難しい。日本だとまだテイクサイドできるんです。野党共闘を応援しつつも、三宅洋平を応援(笑)。タイの場合はぼくは選挙権ないし、国民じゃないし、さらに状況が複雑怪奇。ハンパないですよ、よじれ方が。

桑原 日本から逃げ出したいと思ったとき、バンコクに来いよ、と言ってくれる友人がいれば勇気づけられることもあると思います。それが世界中ならね……。

遠藤 避難所がね。

桑原 そうそう、音楽を通して心が通じたときのようにね。YMOが日本にファンが100万人いなくてもいい、世界の国々に10万のファンが集まって100万人の方がよっぽど自分たちらしく幸せだ。と言っていたように、それが政治でも行われるべきだと思うんです。そういう意味で、渦中にいて政治的なところもやってきたというものだから、聞いたんです。一緒になって震えるようなものが行えるかが大事ですね。タイにおいては当事者じゃないかもしれないけど、彼らのなかに入ってやれたんですよね。

遠藤 ……タイは軍事政権で、言論の自由がないですからね。日本の比じゃない格差社会。ほぼ相続税ないです。ガチの階級社会。ぼくの知り合いの英語を喋れた連中は比較的恵まれている人。文化に強い人は比較的お金を持っていて言葉を喋れる人で、そういう人たちが固まっちゃうんです。でも、「甘さ」はネガティブではない国なので、個々の幸福度は貧富を超えて高いとおもう。

06. Khaen Long Kanong Lam (Joyful Khaen, Joyful Dance) Dec 2015 at Jim Thompson Farm and Wonderfruits Festival
Designed by Jiro Endo + Boonyapanachoti Woraya Curated by Gridthiya Gaweewong / Jim Thompson Art center Photo by Gridthiya Gaweewong

桑原 一番やりたいことをタイで実現できたという話を受けての質問なんだけど、反抗文化のエキシビジョンツアーということだったんでしょ?

遠藤 半分はね。あくまで裏は、ということ。フルに全面には出してはないですよね。いろんな側面がありますから。そういうのをさりげなく出して教えている。

桑原 楽しいだけじゃなくて、啓蒙している部分もある。

遠藤 入り口はエンタメ。そういう背景だったんだというのは学べる。タイで一緒にやっているキュレーターが仕込んでいるんです。周りからぶっ叩かれない範囲でね。コミュニズムでやろうというのではなくて。合法のなかでやるテクニックですよね。

桑原 それは学ぶべきことですよね。きっとこれから我々もね。

遠藤 どんどんヤバくなりますからね。

桑原 そういう意味でも日本の国という単位で社会を見るのではなくて、アメリカにも、スペインにも信頼したくなる政治家もいるし、そういう人たちとつながっていくのが希望を作る大きな要因だからさ。それを体験してきたんだろうなと思ったので、こういう話になったんだけど。

遠藤 タイにもNGOとかNPOやっている人は知っていて、政治活動をしている人も知っていますが、政治家は知らないです。ぼくは逆に3.11までは眠っていた。高校時代に左翼は格好悪いからまともなリベラルなものに変えなきゃいけないというふうに思っていて、ピースパーティってのをやった。(※写真7)

桑原 それなに?

遠藤 グラフィックとかも左翼チックでなく、シンポジウムやったりして、高校の学祭でね。筑紫哲也さんに来てもらったり。80年代初頭の時代背景を考えると超マイノリティですよ。

桑原 マイノリティだよね。浮かれた時代だったから。なぜやろうと思ったの?

遠藤 そういうやつがひとり高校にいたんですよ。奴はデザインはあまり気にしないタイプだったけど。

桑原 特殊な学校?

遠藤 早稲田実業です。日本で成績が一番高い商業科ですよね。ぼくは補欠で入ったんだけど。そこはバリ保守反動だったんです。早稲田と違って。高校三年生の学祭の模擬店の名前はライトウィングなんです。

07. PEACE PARTY ’84 のポスター B 全サイズ 1984 年

桑原 まじ?

遠藤 突っ張りロックンロールハイスクールなんです。ヤンキーの巣窟。すごい勉強のできるヤンキーが関東一円から集まっているんです、うちのクラス。めちゃくちゃ運動もできて喧嘩も強くて勉強もできて根性もある連中が集まっていた。

桑原 すごいね。

遠藤 ズボンの太さを競ったり毎朝4時に起きて朝練やったり。スポーツやってないと人間扱いされない。身体の弱いやつは奴隷ですよね。すごいファッショ。ぼくは思想とか哲学が好きだったけど、それが通用しないデストピアですよ。マッドマックスの世界です。身体の小さいヤツとかは地獄ですよ。体育会バリバリのやつらは大企業や役所に行くわけです。その段階でぼくなんかはマイノリティですよね。早稲田の大学には左翼の世界で、中核や革マルがまだ目立っていて。そういうパネルはいっぱいあるんだけど、早稲田のマジョリティはいえーいみたいなうぇい系なわけです。早実の普通科はパーチーピープルたくさん。マハラジャとかの頃だから。高校生がパー券とか配っている。ぼくはピテカンにも行きつつもTOKIOからスクエアービルにいたるまで行ってて、なんでも経験してみたくて。そういうカルチャーに全部首を突っ込んで、どっか一つに、いけない人だった。当時はヒップホップだというならレゲエは聞かない、ロックならロック。パンクスならパンクス。ぼくはそういうのに疑問を持っていて。

桑原 だからあの時代に私は「革命舞踏会」(日本初のノン・ジャンルのDJフェス)を始める必要があったんだよ。

遠藤 話高校に戻すと、政治運動みたいの無理と思ったんだよね。で、一回閉じたんです。自分がものを言える立場になるまで封印しようって。意味ないからこれは無理と思ったんです。で、30歳からは日本も離れ。……そうしていると、がんばっている奴ら(SASPL / SEALDs)が出てきたわけですよ。ぼくは感動だった。で、国会前に直接会いに行った。

桑原 よく分かる。

遠藤 さかのぼって三年前には選挙フェスをタイでテレビで見てて、がーっと来たんですパッションが。

桑原 高校のときに始まっているんじゃ、熱いでしょ。

遠藤 しかも一回封印していたからね。さぼっていたなって。だから始めようかなと。今はスタートラインですよね。政治カミングアウトして。少なくともぼくが高校のときよりも仲間がいっぱいいる。それが発見であり感動です。方や世の中的には、ぼくが若いころよりもワクワク感が減っている気がします。エコでロハスなものは増えていても、振り切った感じのもの、やべえ超楽しいじゃんというピーク点が減っている。ほどほどの森ガールという感じ。NPO感というかね、リテラシー高いからね。でもなんか穏やかなんですよ。

桑原 それに対してどういう方法がある?

遠藤 今それを考えているんですよ。やっていくしかない。確実にはっきり方法論を語れるところまでは来ていません。基本的には渋い戦いなんですよね。勝ち目どんだけあるんだろうという。でも共振できる人は年齢関係なくいるはずだから、拡大はできると思っている。

桑原 10代のときにピンクフロイドのライブ体験から受けた衝撃を自分なりの方法で発信しようとしているわけだよね。

遠藤 ただ、それは時代もあります。ピンクフロイドなんて、すごい社会的なメッセージが入っているわけですよ。ポリティカルなね。個々最近でもアメリカのケンドリック・ラマーにしてもビヨンセにしてもナショナルフロントで打っている。どんなにアメリカがくそでもああいうのでバランスがとれている。そういう振り切り方、ピーク点をどんだけ出せるかというのを表現として出していきたい。やっていくつもりだしやっていかなきゃいけない。今日ここに来てがーがー喋っているのも、そのひとつ。プレイヤーとしてベンチ入ったばっかりですから。シーズン始まったばっかりなんで(笑)。

桑原 (笑)。

遠藤 まずは半期、一年やらせてくださいみたいな。政治だけやるわけじゃなけど、それをやるのは普通なこと。ビビット来るものを作りたいしそれが楽しい、ということ。楽しい勉強も伝えたいし、楽しい遊びも伝えたいし。いろんな人と話すことで降りることもあるし、話す相手も増えてきたから、かっこいい大人もいっぱいいるしね、がんばろうかなあみたいな。具体的なものは言えませんが、具体的に動いていきます。

国際教育格差の時代

僕が建築を教えていたタイの大学では、1学期4 ヶ月、16週間を区切りとする、週一回丸一日のスタジオと呼ばれる設計計画の授業がありますが、そこでは先生1人に対して学生8人という比率で一人当たり毎週1時間程度は、徹底的に話しをすることができます。また、5年生のときは卒業設計、いわゆる卒論に至っては、先生1人に対して生徒は2名までの制限が原則あります。これをまあ1年かけて毎週会って、毎月学生8人教員4名のグループで、これまた丸一日かけて一人30分のプレゼンテーションと30分のディスカッション(講評)をします。オランダのBerlage Institute(建築大学院)で学生であったときでも、この半分くらいの比率でしたし、比率だけでいえば、もはやそれを超えています。それに対して、日本で自分が受けた教育をかえり見ますと、設計スタジオは先生1人に対して40名。つまり5倍もの格差が。そして卒業設計は1人/ 20人で、期間も半年という、もはや20倍格差です。そしてさらに言えばタイでの学費は日本の3 〜4分の1、しかもうちの場合は全部英語です。また、学生は基本バイトしません。サークル的なものもあまりその存在を感じたことは無いです。こうしたスタンダードの差は、効いてきますよ、まじで。大人の世界も日本とは異なり、ある程度の規模の会社の社長はもちろんのこと、部課長レベルは、もう多少の英語は話せます。プロジェクトはLineのグループチャットでがんがんやりますし、顔の出さないFacebockのプロフの人は、ほぼいないです。なので、世界中の取引先やゲストと直にどんどんつながり、友人となり、自然に平行して仕事がすすんでゆく。

お受験とか
就活とか
自民党とか
クール日本とか
以外
選択肢まじ広げた方がいいんでね?

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遠藤治郎(えんどうじろう)

フェスティバルデザイナー、照明家、美術家、大学講師、活動家、建築家。武蔵美大卒、Intentionallies 共同設立、guesthouse 共同設立、Berlage Institute、new-guesthouse設立、KMUTT/SOAD非常勤講師および卒論指導教官、SUPERSWEET CO,.LTD.共同設立、Big Mountain Music Festivalデザインディレクター等


フリーダム・ディクショナリー
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