とある桑原 茂→の

某日。Paper Showの広報の室岡優友さんから送られた取材場所へ向かった。
田園都市線の大橋で下車、途中、ちょっと覗きたくなるガレージ風ギャラリー横目に、iPhoneをナビゲートに歩いていく、松原の寒さが嘘のように汗か滲んでくる。
あれ、茂-さん?(株)サイモンアンドプラザーズの宮師雄一さんと、バッタリ、
“あれ事務所この辺でした?”
“いや、友人の展覧会がこの近くで二箇所あって、今そこの104見て。この先のガレージみたいなとこへ行くところ。”
“自分も104へ papershow の取材で、”
“ENZOならギャラリーの前にいるよ”
で、久しふりの宮師さんへfreepaper dictionary の最新号を渡して。う~ん、さっきのガレージ風はやっぱりそうか、うん、うん、いざ、104へ。

桑原(以下M) エンゾさん、この名前は?

ENZO(以下E) あだ名ですね。映画、グラン・ブルー(※)の最初のモノクロのシーンの子供時代のエンゾに、僕の子供時代の写真がよく似ているからだと、幼馴染みと一緒に見ている時にそう言われて。

M 生まれは東京ですか?

E 生まれはアメリカです。お父さんが、もともと空軍の施設で働いていて、日本でお母さんと知り合ってアメリカで結婚して。それが60年代で、その後76、7年に、僕が4歳ぐらいの時に日本の立川に帰って来て。

M 帰って来たのは?

E アジア人への差別が激しくて、外に出れないぐらいの。

M えっ、人種差別って、70年代でも?

E 2000年になってもそれは変わらない、都会はともかく田舎はアジア人蔑視がひどくて、友人もそれで離婚して帰って来た。それと、お母さんが、パーキンソン病に罹って、動けなくなったんで、お父さんと別れて帰って来ました。

M ご兄弟は?

E 上に姉が二人います。

M 三人兄弟なら、お母さん、大変ですよね。

E 帰って来てもお母さん動けないから、10歳上の姉が母親がわりになって、

M 13、4、中学生でその役割はきついですね。

E きつすぎて、お姉さんは、潰れちゃったタイプですね。そのあともずっと尾を引いてしまって。真ん中の姉は一つ上だったんで。僕たち二人はまだ幼かったから、その分、楽だった。で、お母さんの症状もひどくなって、ついに一緒に暮らせなくなって、小学校の5年生あたりでお母さんと完全に別れて、養護施設に入って、一人で暮らすようになったんです。

M その後、お父さんとは?

E お父さんとは僕は顏も記憶ないです。写真も一目ぐらい見たことあるかないか、よく寂しかったとか聞かれるけど、経験がないから、欠けてるものは、やっぱり、わからないですよね。

M 私も似たところがあるので分かるような気がします。で、いきなり団体生活ですよね。

E 思いっきりが早かったですね。俺は一人でやってかなきゃいけないんだってわかったから、グズグズ言うてないで、サァ、なにやろう、どうやろう、って。いい例が、集団で暮らすようになって間も無くの頃、進級するんで記念写真をみんなで取った時に、パシャ!という瞬間にバーンって30センチぐらい、俺、浮いてましたね。(笑い)はじけたというか、そういう気分の方が楽しくやっていけるって分かったというか、俺はこれから周りの人と生きていくんだって。それまで、お母さんは、手が震える、喋れない、大事なことも全部震える文字で書いてある。それを必死で読んだり、でもそんな姿を見るのがきつかったし。一番上のお姉ちゃんも辛そうで、言ってみれば、半分コジキみたいな、風呂入ってない、飯もちゃんと食べれない、身動きできない生活で、全部ネガティブだったけど、親戚や児童福祉の人が見かねて、仕方なく別れたことで、それはそれで辛かったけど、一人で生きていかなきゃって、バーンと開いちゃおうって思ったら、切り替わりましたね。

M 小5年には壮絶な経験だよね。で、いつ項から表現に目覚めたの?

E 中学校を卒業する時にははっきりしてましたね。何がはっきりしていたかっていうと、好きなことをやっていくということだけはっきりしてましたね。そのことは、病院にいるお母さんにも言いに行ったんですね。その時も絵が好きだったけど、好きなことだけ追っかけて生きていくからって、そんで。美術の仕事に入るんだけど。

※Le Grand Bleu:1988年に公開されたフランスとイタリアの合作映画。監督はリュック・ベッソン
※エンゾ・モリナー / ジャン・レノ:イタリア人ダイバー。フリーダイビング競技会の強豪であり、その性格は尊大にして、どこまでも陽気。ただしママには頭が上がらない。モデルは実在のイタリア人ダイバー、エンゾ・マイオルカ。

M 中卒でいきなり仕事って言っても、

E 最初はね、歳を誤魔化して。舞台美術の大道具さんのところへ入れてもらって。

M なんでまた大道具さんへ?

E お祖父さんが、大工だったんで、お母さんのお父さんがね、お祖父さんのところには大工道具がなんでもあって、子供の頃からそれで遊んでいたから、とりあえず食わなきゃいけないから、身近なもので自分の出来そうなところを探して、で、四十、五十、の大人に連れ回されて、必死で覚えて、四、五年。腕を磨いているうちに、お手本通りにやることから、自分だったらこうするなと、だんだん目覚めてきて。

M 自分なりのスタイルを主張するにも、スタイルを生み出すためには、現場だけでなくて、他からの刺激や影響を受ける必要があるよね。音楽や映画や色々。

E 自分の場合は本だったかな、15,6の時に、職場のいろんな世代の人に、その人が読んで面白かった本を、読み終わったら、くださいって言って、片っ端から読みましたね。

M 最初にガシッときたのは?

E ギンズバーグが面白かったです。

M えっ?いきなりギンズバーグ?(笑)

E 30歳の人がいきなり渡すんです。でも25歳の人は簡井康隆を渡すんです。その問に灰谷健次郎も渡してくれるし。でも今世の中ベストセラーは村上春樹、で、「ノルウェーの森」も読んでみる、ちゃんと「1973年のピンボール」まで読み返してみる。

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(C)ENZO

M どんどん環境を自分で切り闇いていくんだね。

E そうやっで、いろんな人の見方を知って.ギンズバーグ面白いとなると、じゃ、どこまで掘るか、シャン・コクトーへいって.オスカー・ワイルドいって、そうやって勉強したっていうか、

M 日本の作家とアメリカの作家では、読みごこちが違うよね、やっぱり翻訳ものはぎこちないというか、ギンズバーグのどこが面白かったの?

E う~ん、なんというか、あのベトベトした感じは、お母さんと暮らしている時間に近かったんです。

M ギンズバーグがベトベトかぁ~。なんかすごくわかるね、その響き。

E オスカー・ワイルドの「ドリアン・グレイの肖像」とかになると、まあまあ、ちゃんと頭、狂うというか、あれ、どこが境目?錯覚が起こるというか、そこまで気持ち持っていくというか、

M その頃はシラフ?

E シラフですね。

M 飲まされるでしょう。制作の現場は酒がコミニケーションだから。

E 散々飲みました、毎晩用意しました。おっさんたちは酒がないと話してくれないから。一晩中、やぁやぁ言われて、下手すりゃ、世の中、損得だぞって言われて、でもこっちは15,6歳だから、損得で生きていく気はない。って、一晩中言い張って、そんなの嫌だ。

M なんでそこまでムキになったの?

E なんなら騙されてもいいって思ったんです。騙されてもいいから信じたいと思った。

M 本からの影響ではなく?

E それはね、お母さんからの影響だと思う。身動きができないお母さんだったけど、どんなにひどい状態でも子供達は絶対手放さないって言い張ってたんです。親戚や色々な人が説得に来ても、一度手放したら終わりだからって言って。だから、一緒にいる間にお母さんから教えられたことはやっぱり信じるっていうこと。これは、今でもずっと変わらないです。

M う~ん、で、舞台美術の会社には4年?

E そうですね色々やらされました。能の舞台から、ライブのイベントまで、ほとんどうちに帰らず、懸命に働いて夜中まで飲んで、現場で寝て、

M そこは有名な舞台美術の会社なんですか?

E 東宝舞台です

M なんと。大きな会社ですよね。

E そこからの関係で、夜だけバイトに行ったり、常磐津だの、もう本当に色々でしたね。

M まさに腕一本という世界ですよね。

E 20歳過ぎた頃には、もうやめたんですけどね。もういいや、ここからは勝手にやろうって、

M それはまたなぜ?

x2(C)MOICHI KUWAHARA

E ずっと四年間、外へ出っぱなしだったから、いっかい、うちに戻って、仕事には出ないで、まず家の中で、好きなものを作って、

M 働きながら、好きなものを作る人は多いよね、収入の心配はなかった?ま、スタートも早かったから、四年間みっちりで、仕事への自信があったからかな。

E 自信というより、ともかく色々見たかったしね。働いたお金、ぜんぶ貯めてたから、しばらくは大丈夫って思ってたし。したいことの材料が買えればいいわけで.

M そこは堅実なんだ。若い仲間といると、あるだけ使っちゃいそうだけどね。

E 15,6の畤に、ある意味同じ世代の人と離れました。年の近い人には興味がなかったんです。一番歳が近くて24,5歳だったから、

M 大工さんの世界って、徒弟制度が残ってるから、付き合いが難しそうだけど、

E 仕事が出来るか出来ないかの世界だから、ある意味、歳は関係ないんで、やるか、やんないかで、どんどんやってけぱ、自分がやりたいところへ辿り着けるので、一番下のやんなきゃいけないところをさっさとやっちゃって、その上をやる。楽しかったから、夢中でやれたんだと恩う。

M その勢いで、ここまでやってこれた?

E いや、そんな簡単じゃないです。やめましたって言ってから、何ヶ月か一人で遇ごしたんです。それこそ、自分で体に色塗って、どっか廃墟みたいとこいって、一人で写真揖りながらとか、色々してたんです。そうやって遊んでたんです。夜に。そして、色々作ったりしていたら、スペース・シャワーから声がかかって、出来てから二年目ぐらいかな、番組色々やってるのに、要は、セット立てる奴が必要だって。何にもしてないなら、手伝いにおいでって声かかって。行って手伝ってたらプロデューサーの人が、お前一年間でいくら欲しいの?って、言われて、う~ん、それじゃって、適当なこと言ったら、わかった、それじゃ明日からおいでってことになって、働き出したんです。それで。番組ごとのセットを頼まれて。でも予算ないよって言われて、じゃ、なんか考えようみたいな。全部一人でやってた。そん時に、それこそ先輩には下條ユリちゃんもセット作ったりなんかしていて。少しづつ人が増えていって、そのうち、ディレクター達がPVとか作り始めて、そこにも参加することになって、ゴミいっぱい拾って現場で作ったり、そこからどんどんどんどん広がって、

M 記憶に残っているPVとかありますか?youtubeで見れるのないですか?

E いっぱ~い、ありますよ。それこそUFOとか。北岡一哉さんから、明日撮るから、とりあえず角材だけ持って来て、角材だけ?みたいな(笑)で、角材だけ持ってったら、何作る?って言われてびっくり。そうやって、ある意味鍛えられたっていうか。もう20年近く前のことですよね。

M 今はもうあまりPVはやらない?

E そんなことないですよ、たまにやりますよ。同じくスペースシャワーにいた、ディレクターの大喜多正毅くんから。最近も声がかかったり、ある意味そこは変わってないかも。

茂一さんとは、一度お会いしているんですよね。
ショーン・ペンに似た、永戸鉄也さんにそう言われて、思わずたじろいた。過去の記憶を消す男(私)は全く覚えてなかったのだ。いきなりギルティーな気分でインタビューは始まった。

永戸(以下N) 僕も実家が中野区の沼袋で木工所やってて、

桑原(以下M) 東京の人?

N 東京です。木工玩具とか、パーツを作っていたんで、機材が揃っていたんで、小学生の頃にはもう丸ノコとか使っておもちゃとか家具とか作って遊んでましたね。工場はおじいさんがやってたんですけど、戦艦大和が欲しいとかいうと、すぐ木で作っちゃってくれて、こっちはプラスチックのが欲しかったんだけど。くり抜いたからこれは浮くぞとか言って(笑)それが、母方で、父方は厳しくて、会計事務所とかやってて、

M 厳しいというのは?

N 躾が厳しかったですね。ちゃんとした言葉遣いで喋りなさいとか、家がきっちりしてましたね。だから小学校から週末は母方のうちに泊まって、モノづくりを楽しんでましたね。

M ご兄弟は?

N 妹がいるんです。

M 長男なんですね。

N はい。会計士は父方の祖父がやっていて、父も長男なんですが、ちょっと変わった人で、飛び込みの営業とか、ある時はデパートの子供売り場で、自分が仮面ライダーの格好して、子供と一緬にポラロイドをとって、それを缶バッチにして売ったりとか、そんな自分を売った営業みたいなことやって食いつないでましたね。で、いろんな因果があって。会計事務所は弟に継がせて、自分は母方の木工所を継ぐことになって、だから自分は巌しい方とゆるい方を行ったり来たりして、結局、父親も母方の方を継いでいくという、ちょっと、変な家庭で、

M 子供心にお父さんをどんな風に見ていたんですか?

N あぁ、あと、父は山登りが好きで.山岳会を自分で開いていて、そういう山男たちが家によく来ていて、

M 確か.70年代の頃って山男がすごくかっこいい時代だったよね。

N かっこよかったですね.だから高いとこもよく連れて行かれて、無理やり(笑)小学生でもホテルとか泊まらせてくれず山小屋やキャンプ、子供の頃から、ものづくりとアウトドア、もともと、木工所をつぐ予定だった人が、僕が小学校へ入るかどうかの頃に、白血病で死んじゃったんです.そんなんがあって、父親が継ぐことになったんですけど、その人が、僕のことを可愛がってくれて、すごい早熟な人で、宗教とか、音楽のことなんかもすごく勉強してて、23、4で死ぬんですけど、可愛がってくれてた時に、多分、神様のことなんかも話してくれてたんだと思うんです。その人、楽器も好きで、デキシーランド・ジャズとかもやってて、だから子供の時に無理やり聞かされたりとか、仲間が集まって練習している風景が、3.4歳の頃の記憶にあって、その人が死んだ時に、僕もなんか、宗教か、音楽か、その人建築もやってたんで、絵の方向、デザインとか、そっちに、絶対いこうって決意をして、

M それって何歳?

N 僕、もう小三の時に油絵描いてたんですけど。だから、もう、結構若い時になんか手作業で食っていく、ていうのを決めてて、

M 早いね(笑)

N その人の葬式の時に自分もそういうのを継がなきゃいけない意識が芽生えたというか、

M 自分を特別可愛がってくれる人が亡くなるのは子供でも強烈な体験だよね。

N その人は、白血病で亡くなる過程を自分でイラストに描いていて、月光仮面が助けに来てくれて、悪魔が足の裏に、押しピン虫ピンみたいのを刺してるとかをコミカルに描いてるんですよね。それを死んだ後に全部もらって、それをコラージュの素材に使ったりしてたんだけど。どっかで、絵と死みたいのがつながってて、作るっていう切実な想いが、その時芽生えたんでしょうね。

M その人の肖像画を描いたりとかは?

N そういうのはないですね、子供の頃は勳物の絵とか。その頃。油絵の具セットを買ってもらったんです。初めて描いたのが小3ぐらいで、鷹の絵とか描いてました。

M ご両親が油絵のセットを小3の子に買ったのは、小さい時から絵を描くのが好きなのをみてて、美術への可能性を感じてたんでしょうね。で、お母さんはどんな人なんですか?

N 今も普通に暮らしていますよ。僕が好きなことをやることをいつも後押ししてくれるような人でしたね。

M ガミガミいう人ではなかった。

N 言わないですね。嫁いだ家が厳しめだったぶん、子供には自由にさせてやりたいっていうのもあって。週末になったら、中野行きな、みたいな感じで。

M 沢山の大人達に守られてる感じがいいですね。豊かで暖かい環境にも関わらず、普通なら、もっとのんびりしてそうなのに、早くから自立心が芽生えたのは不思議ですよね。

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(C)永戸鉄也

N なんか、木工所と会計士という両極端な環境というか、父方は家もでかくて、父方のおじいさんは、毎朝、運転手付きの黒塗りのハイヤーが来て出社してて。政治家から月の石を貰ったとか、権力側の人だったんですよ。だから威張ってて嫌だなっていう、なんかカッコ悪いと思ったんですね。片や、粉まみれになって木工所で作ってる人たちの方が好きだっていうのがあって、そこでふつふつと、作ることの方へ向かってったというか、高校の時にはもう学校へあまり行きたくなくて、私立だったんですけど。で、その前にカンニングに嵌るんですよ。もともと手先が器用だから、カンニングの道具を作りまくって、

M えっ、いつから?

N もう小学校の頃からカンニングは始まって、中学校の時にはもうかなりのプロになっていて、それである程度成績出していたんで。単願だったらこの学校行けるよって言われて、勉強したくなかったから、早々に簡単に入れてくれるところに入って、

M そのカンニングのプロっていうのは、自分の発明?

N えっとね、最初は本とか映画とかで。みてたんだけど、最終的に僕が行き着いたのは、シャープペンをすごく細く削って、針のように尖らせて。オブラートに全部書き込んで、試験中はそれをみて、終わったら、飲み込んで証拠を隠滅するという、絶対見つからずに、

M それ。もう小説の域だよね(笑)しかも小さな字でオブラートに書ける、その技術がすごいよね。

N もうすでにデザインしてました。(笑)

M 他にいなかったでしょう。そんなカンニングの方法は。

N そこまで行くと、もういないですよ(笑)オブラート、自分で賈ってましたからね。

M 父方の厳しい方から、いい高校行けとか言われなかったんだ。

N ないですね。もう中学の終わりからスケートボードやってたんで、それこそ第二次みたいなブー厶で、それまで藤原ヒロシさんたちは、プールとかやってて、その次の段階ですね。80年代の頭ですね。

x4(C)MOICHI KUWAHARA

M そこは独特のコミュニティーなんだよね。

N 音楽も含めて特別でしたね。もともと。父がジャズマニアで子供の頃からブルー・ノート聞かされていたから、それにデキシーランドージャズも聞かされ、で、ラジオから流れて来たハウンド・ドック聞いて、小六でエルビスが好きになって、

M うん?その世代で、プレスリーは普通出てこないよね。(笑)

N おかしいですよね(笑)で、スケート・ボード始めてから、ハード・コアになって、で同時にグレートフル・デッドがすごい好きになって。それで少しバイトして金貯めて、高校出てすぐにアメリカに行って、デッド付いて回って、空いてる時間は、アメリカン・ハード・コアとかライブ見て、アメリカでまた音楽にハマって、

M それは何年ごろの話?

N 90年代の頭、初め、フロリダに2年ぐらいいて、一回日本に帰って来て、それこそ大道具もやり、稼いで、またアメリカに行って、ビーチ・ボーイズ・ツアーについて回って。それから、今度はブルックリンに行って、そこに2年ぐらいかな。

M アメリカでは、仕事してたんですか?

N 初めは学生で行ったんですりど.2回目は不法滞在になって、それでも出来るバイトというと.ポルノ・ビデオの配達とか、皿洗いとか、歩きのメッセンジャーとか、それで食いつなぎながら、音楽と、絵をずっと描いてました。

M 向こうでは展覧会とかは?

N やってないです。描いて溜まったら捨てるっていう。

M 捨てる?

N もともとなんか変な反骨心があって、ギャラリーに見せるとか、学校に行って誰かに教わるとか、そういう中に入るのが嫌いだったんで、描いても捨てるっていう、捨てるとホームレスの人が拾って.売ってるのを見て喜んでいるとか(笑)そういうちょっと、

M その頃のものは.写真もない?

N ない。全部捨ててたんで。その頃、ナイフの絵を描いてたんで。それとか武器の絵を描いてましたね。その時は、リキテックスで、キャンパスにただでっかいナイフ描いたりとか、槍みたいのかいたりとか。

M アメリカは武器が豊富にあるからという、マニアックな趣味ではなくて、

N 全部妄想なんですよ。見ながら描いてるわけじゃなくて、で、だんだん、その頃から印刷物を切ったり、他にも椅子の絵もたくさん描いてましたね。背もたれが燃えてる絵を延々書いてたりとか、全部妄想で。

M で、コラージュを初めて、

N 適当に。その辺にあったもので、やってましたね。

M それも捨てる?

N 捨ててましたね。何にも残ってないんで。

M 写真もない。

N 無い。

M 過去を消していくってかっこいいね。

N 今だにその気質はあって、色校なんかもバンバン捨てて、まだ終わってないのに捨てていんですかって言われて。(笑)捨ててますね。

M う~ん。ここまでお話を同いて、お二人のことが幾分、見えて来たんですが、今回のpaper showは、お二人のコンビで何回目になるんですか?

N&E 初めてです。

N たまに僕もPVとか監督するんですが。そん時頼んだのが最初?うちの近所に紙の処理場みたいのがあって、そこでバンド・ショット撮りたくて、けど、そこ撮れないっていうんで、そこの写真を撮って、美術やる人に渡してもらったんです。それがENZOで、撮影の現場行ったら、その写真のまま出来上がっていて。巨大なベルトコンベアーとか紙の束も、撮影はダメって言われたごみ処理場が見事に再現されていて、あれから、

E 10年経ってない。

N 10年経ってないね。

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(C)MOICHI KUWAHARA

 

さて。謎のPAPER SHOWこの続きは2月10日号を待て。と言っても展覧会は始まっているんだけどね。その展覧会の顛末記をお伝えする予定です。
展覧会の内容は、大きな意味でコラージュ作品になるとのこと。その制作のプロセスはいってみれば交換日記。または、国や地域を超えてデジタルでつくる音楽家たちの制作過程に似ているのかもしれない。
まずは。展覧会をお楽しみに。つづく。

会期:2016年12月10日(土)- 2017年1月15日(日)
営業時間:12:00-20:00(水曜日、12月27日-1月6日休廊)
会場:104GALERIE (東京都目黒区青葉台3-22-1 日黒ハイツ104)
Tel: 03-6303-0956
URL:http://104galerie.com/
会場2: 104GALERIE-R (東京都目黒区大橋1-6-4 GARAGE)


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