阿部海太郎 X 桑原茂→

写真桑原茂→
デザイン内山望

自分がつくった音楽が、いい意味で一人歩きしていっている

阿部海太郎(以下U) やっぱりこの何年か、とくにこの2、3年ですね、前のアルバム作ってからの間に、本当にいろんなところで「聴きました」と連絡をくださる方がいらして。「○○の離島に住んでいます。テレビで耳にしました。自分は島で音楽の教師をしていて、ピアノで弾いてみたいんですけど、楽譜はありますか?」など。そんな感じで、ただ音楽だけ聞いて連絡をくださる方が増えている実感があります。もちろんテレビで音楽が使われている影響って、大きいんですけど、自分がつくった音楽が、いい意味で一人歩きしていっている感じがしていて。
僕なんかは、あるミュージシャンが好きだと思ったときに、その曲も好きかもしれないけど、その人の作家性というか、大げさに言うとその人が持ってる思想とか、そういうことも含めて、ファンになっていくんですけど、テレビで聴いたのをきっかけに連絡をくださる方々は、まずは音楽から興味を持ってくれている。たとえば僕が何歳かどうかもわからないと思うんですよね。テレビとかで名前が出たりして、それで調べてコンサートに来ました、という方がいらっしゃるんですけれど、「名前だけ見て、50~60歳くらいの方だと思ってました。」と言われることがあって。
作家というところから切り離されてるというか、聴かれているという状況に今なってるんだなあと思います。

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(C)Ryo Mitamura

桑原茂-(以下M) うん。

U そのときに、若干せつない思いもあるんですけれど、自分の手から作品が離れて、パブリックなものになっているという気がすごくします。とくに今回のアルバムは、モノとしてどういう存在のありかたをして、どういう人に、どういう風に聴かれるのか、というのを自分で考えるというよりも、ジャケットのアートワークをお願いする長友さん(※)に客観的に委ねてみたいというのがあったんですよね。現実的に言うと、ジャケットのデザインというところに尽きるんですけれど。
※(長友啓典…5th album Cahier de musique 音楽手帖)のジャケットデザインを手がけたアートディレクター。1969年に黒田征太郎とK2を設立。)
長友さんの言葉だと。「今までのものはどれもとっても海太郎さんらしいから、自分がやるならちょっと違ってもいいんじゃないかなと思う。」とおっしゃって、こういうふうにしてくださって。

M 先日も山積みのCDの中から、ABEくんのCDを使いたくて探し始めたら、一発で見つかるんだよね。ひゅっと目がいっちゃうの。いやあ、デザインって、すごい力だなと思って

U そうですよね。長友さんは、最初4案くらい出してくれて。どれも素敵なんだけど、やっぱり圧倒的にこれのインパクトが…ABE(!)っていうインパクトが。(笑)

M このジャンプのしかた!

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5th album “Cahier de musique 音楽手帖”

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1st album “6, Rue des Filles du Calvaire, Paris”「パリ・フィーユ・デュ・カルヴェール通り6番地」

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2nd album”SOUNDTRACK FOR D-BROS”

p6

3rd album“Cinemashka, chika-chika cinemashka”
「シネマシュカ、ちかちかシネマシュカ」

p7

4th album”The Gardens -Chamber music for Clematis-no-Oka”

楽譜を書くということはもう、「一生こうだ」ということ

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(C)Ryo Mitamura

M 実はベネズエラのグスターボ・ドゥダメルが好きなんだけど、元旦に見た「ウィーン・フィルニューイヤーコンサート」で、75年の歴史で、初めてですって。35歳の青年が指揮をしたのが。で、グスターボを知ったのが、彼が20歳前半の頃で、クラシックから受ける初めての衝撃で、びっくりして。

U クラシック音楽って、言葉の通り「古典」で、すごく過去のものという感じがするけど、実はたかだか200年くらいの歴史しかない。たとえばバッハから数えても、ベートーベンから数えても…。基本的に1900年以降はいわゆる「クラシック音楽」というジャンル感はそこで終わってきますから、そういう意味で、実はめちゃくちゃ特殊なんですよね。でも、それを学校教育とかで「これがクラシックです。」と音楽の基本のような感じで教わるし、中高生がバンドをやるにしても、基本はやっぱりコード進行とか五線譜とかクラシックが元になっている音楽の仕組みを勉強するわけですけど、実は歴史もそんなに古くなくてしかも一旦終わっている、ある特定の地域(西ヨーロッパ)のジャンル。僕の中で、まずそういう認識があって。

ppp

(C)Ryo Mitamura

M うん。

U その特殊性のひとつが、楽譜があるということ。これは大きいと思うんです。楽譜があるというのは、ジャズと根本的に違って、本当に全て細かく決められてるわけですよね。その「決める」っていうところに良さというよりも、「凄み」があって。「決める」っていうことは、もう、「一生こうだ」ということ。作曲家が楽譜を書いて、筆を置いた瞬間に、もう何があってもこれは変えられない。それこそ憲法じゃないけど、書かれた言葉を、自分があとから変えることはできない、くらいの覚悟で筆を置くわけですよね、譜面を書くっていうのは。「明日はこうしよう」みたいなことはきないというか。明日地震が起きようと、原発が爆発しょうと、何が起きようと「これはもう絶対にこう」という、そういう覚悟を持って譜面というのは作られている。

その凄みがあるんだけれど、一方で、ある種の小さい死を一旦迎えてると思うんですよね。譜面に書かれてしまった時点で。ドゥダメルのすごいところは、一旦死んだ譜面というのにも、作曲家が書いた瞬間にはある種の即興性があって、その即興性を出してる感じがするんですよね。「今モーツァルトがこう書いた、こう歌った」みたいなことを沸き起こさせるというか。たぶん、僕の予想だと、もともと南米の指揮者として、ヨーロッパからしてみたら海の向こうの人なわけですけど、おそらくあの指揮者の元で弾く、オーケストラの団員もそれを感じたと思うんですよ。「今シュトラウスがこうしたいから譜面がこうなってるんだ」みたいな、リバイバルする感じというか。だから絶対演奏者は楽しいだろうし、譜面があることによるマイナスの部分というか、わけもわからず、書いてあるからただ信じてやるだけ、というダイナミズムのない演奏に陥る可能性はたくさんあるんだけど、そこをもう一回理解させるという意味で、ヨーロッパの人たちにとっても、あの指揮者は自分たちにとって必要だ、という感覚にはなっていると思うんですよね。

M 不思議なのは、Youtubeに彼のリハーサル風景の動画がたくさんあるんだけど、改めて観てハッと気がついたのは、ドゥダメルの英語が、まるで僕らが片言で話すような英語で楽団員に指示出しそれがちゃんと伝わってるんです。彼のオーラ、それから微笑み、もう人類愛といえばいいのか、音楽って本当に魔法なんだなあって思うぐらい…。

U それはやっぱり…一度味わったら抜けられないんじゃないですかね。

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(C)Asaf Ashkenazy

感性のコピペ

M 音楽はそういう意味では、無から有を作るというのが当たってるのかわからないけれども、ある種の強いファシズムの役割をするかもしれませんね。「ウィーン・フィルニューイヤーコンサート」の世界もそうですけれども、やっぱり戦争と切り離せないマーチのリズムの楽曲を演奏するわけですからね。

U そうですね。学生の頃にヨーロッパヘいった時に、よく覚えている出来事があるんです。当時ドイツに留学してる友達がいて、フランスからバスで訪ねたことがあって。辺鄙な場所で、電車を乗り継いで最後バスに乗らなきゃいけないんですけど、本当に田舎の方で。そもそも一時間に2本くらいしかないのに、その時間になっても全然バスが来なくて。ヨーロッパだから時間通りに来ないこと自体はなんにもおかしいことはないんですけど。ただ、フランス人だったらもう待たないんですよ。諦めるか別の手段考えるかぶつくさ言うか。ところがそのドイツ人たちはみんな文句言わずに待ってるんです。きちんと。もちろんイライラしているとは思うんですけど、フランス人ならそのイライラを隣の人と話して解消しようとするだろうし、ドイツ人は寡黙ですごいなあって。そうしたらようやくバスがきて、次の瞬間、待ってたドイツ人がもう一斉に運転手の方に向かって抗議をするんですよ。いわゆる本当のシュプレヒコールだこれはと思っで。あの一体感、息の揃い方とか。ちょっと鳥肌が立って、背筋が寒くなる感じ。みんなで示し合わせたように、今まで一言も喋ってなかった人たちが、一斉に運転手に向かって抗議しているのを見て、こういう人たちだけで集まってやっているオーケストラで、ベートーベンとかモーツァルトとの交響曲を20分30分かけて、個人を超えた大きな目的のためにうわ一って進んでく感じが、そりゃ違うよなと思ったんです。ひとつのところにみんなで向かってく感じ。すごいパワーでした。同時に、これがもしヒトラーの時代だったらってことを本当に考えちゃったんですよね。こうやって同じ方向にみんながうわ一って、あのダイナミズムというか、すごく考えさせられましたね。

M 黙って待つことにかけては日本人もなかなか負けないと思うけど、ドアが開いた瞬間に、ハイル・ヒットラー的な民族の統率力はないかもですね。

U 『和をもって尊しとなす』って、日本人は個人よりも連帯意識を持ってるって一般的には言われると思うんですけど、僕は必ずしもそうじゃない気がしていて。ヨーロッパのメトロとか鉄道とかには絶対なくて日本にあるものは、ここで待っててくださいってラインあるじゃないですか。ヨーロッパの鉄道ってドアが開いて、何か見えざる手で、スムーズに乗り降り出来るんです。日本だとその線を引いてないと奪い合いになるし、スムーズな乗降できないと思うんですよね。留学から帰ってきた時にすごく色んな場面で感じたんですけど、日本人は意外とエゴがあって、だけどそのエゴの責任っていうんですかね、自由の責任みたいなものの持ち方がやっぱりちょっと違うというか、もしかしたら責任を負わない。

M そうだとすると、今起こっている日本の状況っていうのは、まあ当たり前すぎるくらいに当たり前な状況ですよね。耐える民族とか、従順な民族とか、規則正しく、礼儀正しく、みたいな持って生まれたものが善なのだっていうような教育を私たちは丸ごと信じ込んでいるところはあるかもしれないですね。本当は日本人は単一民族ではないにもかかわらず、世界の一等国に遅れまいと編み出した日本人像がそのまま私たちの日本人像かもしれないですよね。その話はとても納得いきますよね。わざわざ黄色線までお下がりくださいっていう、まるで乗客を幼稚園児扱いする習慣も、本来守らない民族だったのなら仕方ないですよね。だからと言って、特に危機感があるわけではないんでしょ。

U SNSが持ってる影響っていうのも、どうしても感じていて、SNSが普及する前に例えばYoutubeが出来て、僕なんかも時々必要なものは見るし、ひと昔前だったら考えられないような貴重なものを見れたりするし、それは素晴らしいけど、簡単に手に入ったものって簡単に手放してしまうところがあって、それは経験として、そのものの価値じゃなくてその人にとっての価値っていうのが本当は大事なんだけど、ここまでいろんなものを簡単に手に入れられると、いつでも簡単に手放せるくらいの距離感なんですよね。音楽にしろ、何にしろ、得られるものとの関係が。あと最近感じるのは、よく情報はコピーされて伝播していくんですけど、いわゆる拡散っていう現象が起きた時に、オリジナルなものが拡散していく、複製されていくっていうだけじゃなくて、音楽に対する感想って、それぞれが持っているはずなんだけど、その感想や印象自体がコピーされていってる感じがするんですよね。これってこうだ、この曲すごくいいみたいな、経験で得られる、本来生々しいはずの感情こそがコピーされているような気がする。

M アルゴリズムの悪い面が現れてきたっていうことでしょうかね。例えば自民党が好きじゃないってことをSNSでつぶやいていると、そういう情報しか入って来ないから、自民党のいい面を知りたいと思っても、そうした情報は遮断されているから、外から見ると、バリバリの共産党好きな人って、アルゴリズムが勝手にその人を作ってしまう。らしく、それはなんとかする必要があるっていうのを、FBか何かで読んだことがあります。阿部君のライブを見たあとで、仮にSNSでの書き込みに、いいこというな一って、感想文をもし自分が読んだら、その表現は使わないですよね。同じこと思ったとしても。自分なりの言葉を考えますよね。今の話は、風潮として、同じ言葉を、誰もがコピペして使ってしまうということですよね。

U 同じような感想がコピーされていくし、同じ言葉を発するということは、みんながそう思ったことになっているというか。実は複製技術が出て、最初に問題になったのがオリジナルかコピーかっていう作品の側の問題で、特にCDのコピーのクオリティが飛躍的に上がってきた時もそれこそガードするのかどうかとか、基本的には作品のオリジナル性の問題だったんですけど、今は、どれがオリジナルの感想なんだろうっていう。

M 怖いなあ。感性のコピペなんてね。そういえば、「この世界の片隅に」の感想って、判でも押したみたいなものが多いですよね。それってもしかすると感性のコピペで、無から有を作りだしたヒットラー式のファシズムなんですかね。怖いですね。

U そんな感じしますね。怖いですね。

作品の側が何かを生み出していく

M 最近、NHKが戦争中を舞台にした戦争は不条理だ的なドラマを途切れず放送しているようですが、あれって、近い将来戦争を始めることを想定してのプロパガンダではないのかと思えることがあるんですよね。何気なく見てれば、戦争のない平和を願うドラマなんだけど、プロパガンダと考えれば、先の大戦で、戦争中人々はどう対応し暮らしたのか。多くの人が不服を言わず耐え忍んでお国のために尽くしたという事実。多くの日本人がそれを美徳として感じていた。これを繰り返し見せるということは、非常時のためのプロパガンダという見方もあながちない話ではないと感じていたので、今の話で、ますます納得しちゃうな。感性のコピペって、それって言ってみたら、先の大戦が空気で戦争を始めたってことの現代版かもしれないですよね。

U そうですね。その感性のコピペと繋がってくるんですけど、作家は無から有を作っているようで、本当に作っているのは作家の側じゃなくて作品の側なんだと思うんですよ。作品が何かを作っている。それがいい作品であればあるほど無限にそれぞれが語ることが出来て、言葉を生んでくれるっていうのがひとつ。もしかしたら音楽的な影響を他の音楽に与えるってこともあるかもしれないし、それは美術でもなんでもそうなんだと思うんですけど、いい作品っていうのは、作品自体が何かを生み出せるものっていうのが本当にいい作品だと思います。音楽評論の世界もそうだけど、音楽評論家がある種オーディエンスとかお客さんの代弁をしている時もあるし、お客さんの代表だったりもすると思うんですけど、聞く側それぞれがその作品を通して生み出せるセンスを持っていて欲しいなってすごく思うんですよね。

大雑把に言って日本で評論家と呼べる人が少なくなっている気がしていて、フランスなんかとはメディアの仕組みが違う。僕は詳しくはないですけど、日本は舞台にしろ、なんにしてもプレスリリースが届いて、それをなぞって記事にするような。それでも評論って名乗っている時もあると思うんです。新聞社主催のコンサートに呼ばれていってそれで記事にするみたいな。でも向こうの音楽評論ってそういうことじゃないし、ちゃんと評論して、その評論家のクレジットの価値っていうのがある。例えば衝撃だったのは、フランスでは、スポーツの記事でさえ、サッカーの試合をギリシャ神話に例えてー試合記事にしてるのとかがあって、これこそ文章にする意味があるというか。もちろん何対何でどっちが勝って誰が活躍したというのは、試合見て、録画して見て、それで充分なわけです。だからこそギリシャ神話として振り返るのは記事になった意味があるなみたいな。そういう音楽評論を求めるような社会であって欲しいと思います。たまたまさっき実存の話になった時に、ふと思い出したことがあって、「他者論」で有名なレヴィナスが、それこそ評論について書いてある文章があるんです。評論家と作品の関係を評論と他者という風に捉えてて、「他者との出会いというのは何かを生み出すことである」といった意味のことを言っています。前提として、作品は評論家にとって、最終的に絶対的に真の姿と出会えないんだけれども、でも無限に語ることができて、無限にそこに出会おうとすることができるっていう様な言い方で、評論っていうのはそういうクリエイティブな行為だという言い方をしてたんですよ。さっきの感情のコピペっていうこととまた繋がるんですが、ひとつの音楽について、受け手の側がどれくらいクリエイティビティを発揮できているだろうかっていうのをすご<思ったんですよね。

M うん。

U 僕が、作品の側が何かを生み出していくっていうのは、評論家であったら言葉で、ミュージシャンであったら音楽によって新しいイメージを作ることができるっていうことなんです。作家が「わかっている」っていった時の、その「わかっている」のが何なのかっていうのを考えることがあるんですけど、本田祐也君っていう作曲をしていた友人が亡くなった時に、共通の友人のミュージシャンで、本田君の音楽にも参加していた今込君っていう人がどう思っていたのかっていうのにちょっと興味があったんです。

そうしたら、「(本田さんは、)自分の才能以上のこともしようとしたし、才能以下のこともしようとしましたよね。」っていう言い方をしていて、それがすごく面白いなって思って。才能以上のことをしようとしたっていうのもすごくわかるんですけど。才能以下のこともしようとしてたっていうのには、ハッとさせられて。わかってない可能性はやっぱりありますよね。自分の才能っていうものを。

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(C)Ryo Mitamura

M やっぱり人は自分のことがわからないから作り続けるんだろうし、まあいいかなぐらいはあっても、やっぱりもっといいものが出来だろうと思う気持ちがあるから、人は明日も生きていられるんじゃないかと思うので、自分の作品は自分では評論できないと思う。ただ自分の作品を自分がわかって欲しいと思うようには誰もわからない。それはもう誰にも望んではいけないことだろうなっていう意味の、なんだろうな。

U なるほど。

M だからこれから阿部くんが社会のセンターに出て行けば行くほど、思っても見ないようなことが、いい意味でも悪い意味でも評価も含めてね、起こると思うんです。もちろん阿部くんは、おおらかな人だから問題ないと思うんですけど、(笑)人によっては、自分の評価と世間との狭間で評価や結果に納得がいかなくてね、なぜなんだと思い続けて癌を生み出す人はやっぱりいると思うんですよ。

U いますね。

M 自分で病を生み出すような人生を歩まないために、どうしたらいいかなっていうのが、今僕がこの歳になって考えてることで、で、これは今までやってきたことを一回チャラにしないとダメだなって思うんですよ。もちろん、それまでの結果を全て自分の責任だと認めた上でね。で、もう一回荒野の真ん中で一人佇んで、「どうやって生きたらいいんだろう」っていう所から始めないと、1日たりとも生きてる意味はないんじゃないかなっていう風に今は思っているんですね。だから何も出来ないんですけど、ただ、自分がそう思えたことだけが嬉しくて生きてるんですかね。だから、何もないんです。もう全く何もないですよね、自分にはね。(笑)

U 何もないですって言える感じはすごくいいなって思いました

M お恥ずかしい話です。それにして、もう聴いたからいいやって音楽が多い中で、阿部くんの楽曲はそうならないです。聞くたびに違って聴こえたり、前は気づかなかったけどこの曲っでこんなによかったっけって思ったり。映像が浮かぶからね。本当にありがたいものなんですね。僕にとってはね。人を幸せにできるなんて素晴らしいですよ。音楽家はいいなと、つくづく思います。

U 僕がありがたいです。そんな風に言ってもらえるなんて。

M 東京の外れの平屋にいる男がそういう風に聴いてるってことは、世界平和に繋がっているかもしれない(笑)

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photo moichi kuwahara


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(C)Ryo Mitamura

阿部海太郎 Umitaro ABE
作曲家

1978年生まれ。東京藝術大学と同大学院、パリ第八大学第三課程にて音楽学を専攻。自由な楽器編成と親しみやすい旋律、フィールドレコーディングを取り入れた独特で知的な音楽世界に、多方面より評価が集まる。故蜷川幸雄演出作品の劇音楽を度々担当したほか、舞台、テレビ番組、映画、他ジャンルのクリエイターとの作品制作など幅広い分野で作曲活動を行う。
http://www.umitaroabe.com/


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