“Madame Crooner” Miharu Koshi
気がついたことがある。夢の世界とは、あらかじめ叶わぬ、触ることのできない非現実的な世界のことだと思っていたが、おっと躓いた。なんと誤謬だった。そもそも夢を語るものの立ち位置に核心があった。つまり、そのチョンボは、夢の中で生きているか、夢の外で生きているかの隔たりのことで、しかもその境界線のディスタンスの中で立ち振る舞う表現者たちのひとりである私もそのことに誠に無自覚だったのだ。
で、夢追い人は、いつしか夢老い人になっていたという浦島太郎的リアリティーと対峙するその夜、“Soirée Jazz”での私、あっ!しまった。コシミハルが愛する映画を語るとき、コシミハルはその映画の中に居るのだ。無数の名画の中でコシミハルは生きているのである。極論すれば、コシミハルの奏でる音楽は、夢の外で生きる。又は、夢の囲いの中で表現する私たちへ向けたものではなく、コシミハルの愛する映画の住人たちへ向けて奏でている音楽であったという驚愕の事実。しかし、実はこの姿勢こそ歴史に足跡を残す表現者たちの共通した態度でもあったのだ。とその夜私は覚醒したのだ。
目指すものは過去にある。とは、逆行や退行の事ではなく、過去に生まれた名作と呼ばれる「音と詩による美の文学的表現」(CD解説文より)への憧れやリスペクトを、再生しょうとする態度の事だったのだ。となれば、自らを彼らの時代の中に置いてしまう生き方の他に選択肢はない。叶わぬことを夢と呼ぶのではなく、夢の中に生きてしまう道を世界を、「夢」と定義することでもあったのだ。わずかに不謹慎な態度だと揶揄される可能性を除けば、コシミハル的な生き方こそ夢の人生そのものなのである。「幸福を売る男」を歌う、コシミハルは、幸福を売る女Croonerでもあった。
今また 目に浮かぶよ あなたの横顔が一夢の中 ミラー・ボールの幻惑が観客たちを夢の中へと誘う。赤い風車が回る。 1952年のイギリス映画「赤い風車」の主題歌「ムーラン・ルージュの歌」マダム・クルーナーの最後を締めくくる、この名曲と共に回り始めるミラー・ボールの幻惑に気づくとき、観客のだれもが夢の中にいたことを了知する瞬間でもある。そして私は、またしても“完璧だ。”と深いため息をもらす。その夜、確かに私も夢の中にいた。しかし、その夜もまた、私は夢の囲いの中にいたままであった。
桑原茂→
the nearness of you
‘S wonderful
Vous faites partic de moi
The way you look tonight
Night and day
Dream
Quc restr-il de nos amours
Monna LISA
Laura
Les roses de picardie
corset
満潮Marée haute
Moonray
La mer
La vie en rose
C’est si bon
Moulin rouge
It’s been a long long time
注:『Croonの語源は、黒人のソフトでメロウに歌うスラングから来たか、あるいはドイツ語のKroneに由来する説もある。
いづれにしてもクルーニングは偉大な開拓者たるピンク・クロスビー亡き後、LostArt(失われた芸術)になった。」(CD解説文より)