後藤正文 vs 花房浩一

インタビュー構成・写真 桑原茂→
ページデザイン 池上祐樹

花房 一番最初の出会いは面白かったね。国会正門前だっけ?

後藤 そうですね、首相官邸前でした。

花房 あそこで初めて会ったんだったね。そう、今日のテーマは、音楽と政治。硬いものだと思われていたけどね、こういうテーマ。ぼくはぼくで言いたいことがあるし、後藤君は後藤君であると思うの。その辺、まずは確認しよう。自分の話から始めると、ぼくはもともと政治的な子どもだったの。親父が共産党の党員だった影響で、小学生のときにガキ大将から一転、本を読むようになった。えーっと、『共産党宣言』を読んだのが、小学校三年生のときなんです。

後藤 はや(笑)

花房 一番冒頭の「赤い怪物がやってくる」というフレーズ、よく覚えてる。他の内容は何にも覚えてないけども。まあ、そんなのが、なんとなく好きだったんです。弱い者の味方、という内容ですよね。そんな流れもあって、今振り返ると自分でもすげえなと思うんだけど、中学で坊主頭反対闘争をやったの。それ、やりこめられて失敗したの。高校では制服廃止闘争をやって、これは勝ったの。
まあそんな風に、ぼくの世代は学生運動に遅れてきた後の世代で、直接はからんでないけど、影響はすごく受けている。70年代安保を見てきている世代なんです。ただね、政治運動で世の中を変えようというのが当時の運動だったわけなんだけど、でも、結局それは、権力を持つことによって実現しようとするものだった。それに疑問を持ち始めたんです。同じじゃん、政治運動している人も結局デカいものに頼っちゃって、それに振り回されてるんだから。本当は何も変わってないんじゃないのって。
大学に入ると逆に、政治のこと話したくもないしってなって、ものを変えるのは文化だと思うようになっていました。芝居もやってたし、もともと高校のときからギターやってたし、人の前で歌も歌っていた。結局、大学を卒業するまでは政治への関心はなかったんです。ところが自分の場合、なんかのはずみでイギリスに行っちゃったわけです。それが転換期。きっかけは、グラストンバリー・フェスティバルです。CND(核廃絶キャンペーン)と提携したロック・フェスですね。ヒッピーのフェスみたいなの。あれを見たときに、すごいものが動いているって感じた。政治と経済と文化が生活に絡まって日常の内から変化をもたらそうとしている、それにものすごく感動したんです。すごい世界があるなって。ステージのうえで、確かにスピーチはあるんですよ。でも、いわゆる社会運動、政治運動ではない。運動体としての運動って感じじゃなくて、個人の生活のなかで何かが変化しているのが見えるんです。労働運動とか政党とか組織を超えた個人の力、その素晴らしさを強く知った。で、CNDのデモにも行くようになりました。
さらに決定的に自分を変えた出来事は、1984年のハイドパーク。その頃にはもう取材を始めていました。これをきっかけにものを書くようになっていくんです。あのとき、スピーチがありました。ビリー・ブラッグ、ポール・ウェラーが演奏して、それで最後にみんなで「we shall overcome」って歌うわけね。それが終わると、40万人くらいが駅に向かっていった。そのとき、ジョン・レノンの歌、「Give Peace A Chance」を歌い出したんですよ、誰かが。それがね、どーっと広まっていったんです、40万人が同じ歌を歌い始めた。背筋がぞくぞくして、すげえって思った。あのとき確信したんです。音楽の力を感じるようになったし、その視点でイギリスの音楽や世界の音楽を取材するようになったの。かつて斜に構えていたけど、「違う、言葉にしないといけない」って思い始めたの。それがぼくのきっかけ。一方で、後藤君はだいぶ世代が違うね。

後藤 ぼくは今、38歳です。

花房 俺より20くらい下の世代だね。どのようにして政治的なことを語るようになったの?

後藤 30代後半から40代前半のぼくらの世代って、もっとも政治を語ってこなかった世代だと思うんです。政治からもっとも遠くにいた。で、それに対する反省が今のぼくを突き動かしているんだと思っています。どっちかというと、SEALDsとかのもっと若い世代は、がんがん声を上げていますよね。あれを見るたびにぼくたちの青春時代を思い出して、恥じ入るというか……。

花房 そうなの(笑)。

後藤 10代の頃はバブルの燃えカスの時代で、将来のことは深く考えなくてよかったんです。音楽はどうだったかな、J-POPは盛り上がっていたように思います。90年代の音楽ってわりと退廃的というか。グランジがあったり、ベックが出てきたりね。アメリカでは、自分たちの負けている感情をいち早く音楽にし始めて、インディー・ロックがどんどん盛り上がってきていて。一方で、イギリスではブリッドポップが出てきたじゃないですか。ああいう音楽を聞いて、かっこいいなと思っていました。政治性うんぬんじゃなくって、要は目の前にある音楽を楽しんでいればよかったわけなんです。もちろんRage Against the Machineが歌っていたこととか、Beastie Boysが掲げていることに興味はあったけど、いまいちピンと来ていない――そういう青春時代を送ってきたんです。
それが、自分が音楽を始めて歌詞を書いているうちに、いろんなことに気が付き始めました。エコとかロハスとか最初はよく分からないと思っていたし、政治的なことを歌う人に対して嫌だなって思っていたし、チャリティーなんて最たるもので、最後に打ち上げやってシャンパン飲んでんだろって、欺瞞でしかないと思っていた。でも、今になってみると、意味があると思うんです。
僕が非常に感銘を受けた中村哲医師という人がいるんですが、彼はアフガンに水路をひいて緑化活動していたんですけれども、著書の中で、イラクに自衛隊が来るとかアフガンに駐留するとかとなると、現地のNGOの活動が制限されるし命が危なくなるとありました。そういう人たちがいるというのを、そのとき初めて知るわけなんです。そういう人たちの活動を知るうちに、ぼくだって声をあげないとっていう思いが強くなっていきました。
2007年、小泉政権が終わって安倍に引き継がれたあたりですかね。第一次安倍政権のとき、安倍は“北朝鮮のミサイル基地に先制攻撃も辞さない”って言ったんです。完全に憲法違反。当時、この人まずいなと思ったのをはっきり覚えています。
その頃、坂本さんが『SIGHT』という雑誌で「反対しないと戦争はなくならない」という対談を政治学者の藤原帰一さんとしていて、その中で“なんでロックミュージシャンも発言しないんだ? アメリカだったら当たり前だ”っておっしゃっていたんです。一方、ぼくらの世代のミュージシャンはどう考えていたか。影響力があるから政治的な発言はしないというスタンス、それが主流でした。少なからずリスナーがいて、発言一つ一つを真に受ける人がいることへの責任を考えると、踏み出せなかったんだと思うんです。そんな逡巡を、坂本さんは一蹴する。“ロックミュージシャンなんて、そんなこと期待されていないんだから、どんどん言いなさい”って。背中を押された気がしました。おかしいものはおかしいんだから、やっぱり言っていこうって。ぼくは反戦的な歌をわりとはやくから書いてはいたんです。九条の歌は2006年くらいに作っています。自分たちの世代では変わっているヤツではあるんです。
韓国のフェスに出たときに、日本のバンドがメインステージのいい夕方の時間に出るんだから、ペットボトルのひとつやふたつ飛んでくると思ってたんです。けど、韓国の人たちも普通に一緒に歌ってくれて。何を身構えていたんだ? なんて思って。そういう経験からも、音楽に対する考え方が解きほぐれていったんです。それまでにも、原発のことは2008年くらいから調べていましたし、六ケ所村も2010年のツアーの時に見学へ行ったりしました。その後、坂本さんから急に連絡がきて、何冊かの本を薦められて原発や社会について学んだり。そして、2011年の震災です。これはまずいとすぐに思いました。震災の数日前、3月8日の自分のホームページの日記で、ぼくは原発に対する自分の意見を表明していたんです。上関に行ったことや六ヶ所村の感想を踏まえて、これは相当まずいエネルギーだよって。その数日後にあんな事故が起こりました。大きな後悔がありました。
もっと前から声をあげていたら、少しでも状況はよくなったかもしれなかったのにって。それ以外にも、いろいろなことが重なって社会の状況が悪くなっていく。けれど、ジョン・レノンみたいなやつが出てくることを期待できる時代ではない。だから、一人一人が小さなジョン・レノンにならないと社会は変わらないって思うようになりました。で、何をするのがいいのかと考えて、もう未来に向かってタネをまくしかないと思った。若い人たちの心の辞書に数ページでもいいから新しい紙をはさんでいくしかない。

忌野清志郎みたいな表現者も、今のメディア環境では生まれにくいんです。当時と今では環境が違う。熱狂が分散している今という時代には、清志郎やジョン・レノンのような存在は生まれにくい。それぞれ個々のなかに清志郎をばらまくっていう方法しかない、とぼくは思っているんです。一人一人に種をまいていくということ。スピリットは受け継ぐんだけど、アウトプットは今なりのやり方があると思うんです。


フリーダム・ディクショナリー
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