The Interview Kenichiro Mogi & 「茂木健一郎 リトル・ブリテン」

構成:吉村栄一 写真:沖村アキラ(D-CORD)
※2007 年6 月10 日発行の116 号からの抜粋です。
本文は今号に掲載するにあたって再度編集を加えています。

リトル・ブリテンという自由さ

茂木 「リトル・ブリテン」ってすごい番組ですよね。日本ではちょっと放映できないような過激なネタをイギリスの国営放送であるBBC で堂々と放送してる。あの、タブーとか自主規制とは無縁の自由さにはすごく憧れるんです。

デヴィッド デヴィッド イギリスには、たしかにそういう自由な空気はあるかもしれません。「これこれはコメディの題材にしてはいいけど、あれはダメ」といった決まりごとがない

茂木 それはいいなあ。なぜないんでしょう。

マット 思うに、その題材になるなにかがしっかりとしたものなら、コメディで笑われたぐらいで揺らがないっていう確信があるんじゃないかな。

デヴィッド それはありますね。たとえば70年代にモンティ・パイソンがさんざん、イエス・キリストやキリスト教をネタにしたコメディを作ったけれど、それでキリスト教の信者が減ったりはしなかった(笑)。

茂木 なるほど(笑)。そして、あなたがたのコメディは、タブー的な題材を扱っていても、タブーとなりがちな弱者を、実は笑っていないんですよね。弱者の周りにいる、偏見を持った人たちが笑いになっているっていうのが、よく観ているとわかる。

デヴィッド そう。人を傷つけたり、マイノリティをからかうなんてことはしたくない。それが「リトル・ブリテン」の笑いなんです。むしろ、そういった人々を、私たちは祝福しているんですよ。対象からユーモアを見いだすことは、それを祝福することだと思う。ユーモアがあれば、そこに人間性や生命力も見えてくるじゃないですか。

茂木 なるほど!それでも、同性愛者差別や人種差別の愚かさを笑うっていう題材自体がタブー視されている日本にくらべ、イギリスって自由だなって思うんですが、イギリスも昔からこんなに自由だったわけじゃないですよね。昔はまだ同性愛者は違法で入院“治療” の対象だったなんて話も聞きますし。それがいまでは同性愛ネタのコメディまでが堂々と放送される国になってる。こういう変化はどのようにして起こったんでしょう?

マット まずは、第二次世界大戦がイギリスの社会構造を大きく変えたということがあると思う。階級社会というシステムが揺らぎ、女性の意識が高まり社会進出もした。移民も増えて、社会が多様化したんだよね。いろんな文化があふれる中で、同性愛を法律で禁じるなんて無意味だし、誰にとってもいいことじゃないっていうことに、みんなが気づいたんだ。それと同時に、モンティ・パイソンやスパイク・ミリガンが、そうした社会の変化を敏感に感じ取ったコメディを次々と作って、タブーに対する論争というのが盛んになって、みんなが意識するようになったんだね。ぼくたちが登場した90 年代には、すっかり下地はできてたんだよ。

デヴィッド 80 年代だったら、私たちがゲイや有色人種に扮してコメディを作ったら論争になったでしょうね。でも、いまでは「リトル・ブリテン」というタイトルの、イギリス社会そのものを表現したコメディを作ったとき、そこにストレートの白人男性しか登場しなかったら、むしろ問題になるでしょう。

茂木 そうそう。その「リトル・ブリテン」というタイトルもすばらしい。イギリスの本当の呼びらこんなに自由だったわけじゃないですよ名の“グレート・ブリテン” を、「リトル・ブリテン」とすることで、自分たちの社会と、そこに住む狭量な人たちをうまく笑って批評してる。

コメディのもとは、すべからく悲劇なのかもしれない

茂木 日本では、いま同席している桑原茂ーさんが、いろいろ過激なコメディは作るんだけど、メデイアから放映を拒否されたり、まだまだイギリスの状況には追いつけてない。

マット ただ、イギリスでも、完全に自由にどんな題材でもコメディにできるっていうわけじゃない。いまだったら、イスラム教をバカにしたコメディっていうのはタブーだろうね。

茂木 なるほど。

デヴィッド それはきっと、コメディと時間の経過ということが、とても関係しているからだと思うんです。イスラムの問題というのは、いままさに現在進行形の問題で、それはなんに限らず、笑いにしにくいと思うんですね。これは実際に友人の身に起こった話だけど、彼のおばあちゃんが亡くなって、その葬式で、牧師が心臓発作で突然死したそうなんですよ。これは、後から聞くとジョークのような話だけど、実際にその場にいたら恐ろしくて衝撃的な話でしょ。「コメディは時間が経過した悲劇だ」っていう名言がありますが、まさにそうだと思いますね。

茂木 それは真実ですよね。ホレス・ウォルポール(「オトラント城奇譚」で知られる英国の小説家。1717-1797) も「世の中は、感じる人にとっては悲劇だが、考える人にとっては喜劇だ」と言ってる。時間が経過することで、悲劇が喜劇になる。

マット  まさに9・11 がそうだね。ぼくたちはみんな、世界貿易センタービルに突っ込む飛行機の姿を見ちゃったし、遺族の悲しみにも共感した。いまはまだ、9・11 に関するコメディを作るなんて、ぼくにはとてもできないけど、あと何年かしたら、きっとそういう作品が生まれてくるんだろうね。メル・ブルックスが映画でコメディにした、スペインの異端審問のギャグとかもそう。あれも、当時の人にとったら、9・11 と同じぐらい衝撃的で恐ろしい事件だったんだろうけど、ぼくたちの世代なら、恐ろしいことだったという知識はあっても屈託なく笑えるものね。

茂木 そうか。「笑い」というのは、偽の警告音であるという仮説があって、それはどういうことかというと、人間という動物が、笑いという行為を身に着けたのは、もともと、自分たちの群れの周囲に危険がさしせまったとき、するどく放った警告の声がもとになったという説なんです。この警告音、ときには誤報のときもある。危ないと思って警告音を出したのだけど、それが実はまちがいだったとわかったとき群れの緊張や不安をやわらげるために笑い声を出したという。

デヴィッド なるほど。

茂木 科学的な考えでは、笑うことは恐怖や危険に強く関連していると思われています。それと同じように、社会がタブーだと見なしているトピックに対して笑うことで、そのタブー全体の本質や形をよりクリアに理解することができるんですよ。だから、イスラムや9・11 ではなく、ゲイや人種差別を笑えるというのは、イギリスの社会において、それらがすでに深刻な社会問題だった時代は終わっているという見方もできます。すくなくとも、精神的にはそれらの問題を整理できているので、恐ろしさが解消されて、笑ってもいいんだという段階になっている。そしてあなた達がリトル・ブリテンとしてやっているのは、いま話した認知過程における笑いの効果の適例だと思います。日本の社会は、タブーにとらわれすぎて、いろんな話題の本質を見れていないんですよ。タブーが多すぎて、視野がぼやけている。

コメディとは会話である

デヴィッド 私たちが目指しているのは、単に人を笑わせることなんです。観客に政治的な話題に直面してもらうことではない。だから、その話題を振ることによって、観客の笑いが引いたと思ったら、即座にそのネタはやめてしまいます。

茂木 観客からのフィードバックを大切にしているわけですね。

マット もちろん!コメディって会話と同じだと思う。こちらが一方的に話すだけじゃなくて、相手の反応を見ながら進めていかなきゃいけない。こちらがただ話しまくったり、相手を傷つけるようなことを言えば、相手、観客は黙ってその場を去っちゃうでしょ。それと同じ。テレビの「リトル・ブリテン」には、ギャグのシーンに笑い声が入ってるでしょ。

 

茂木 ええ。

マット あれは、効果音のあり物の笑い声じゃなくて、試写を観た観客の本当の笑い声なんだよ。

 

茂木 え!本当ですか?

マット そう。ロケやスタジオで撮った映像を、実際に観客の前で上映して、その笑い声をダビングしてる。だから、試写で笑いが少ないシーンはカットしたり、もっと笑ってもらえるように編集し直したりしてるんだ。観客の笑いが大きいキャラクターは、次の回でも登場したり、逆の場合は消えていったり、すべて観客の反応次第。コメディは会話と同じで、相手が喜んでくれる話題ならもっと話すし、興味を持たれてないようだったら話題を変える。

 

茂木 桑原茂ーさんが、イギリスの有名なデザイナーのジョナサン・バーンブルック氏と話して、彼から、イギリスではコメディアンの地位はポップ・スターと同じぐらい輝いていると聞いたそうなんですけど、やはりそうなんですか?

マット 少なくともタブロイド紙では区別されてないね(笑)。ゴシップ関連はとくにそう。ラッセル・ブランドとか、若手のコメディアンはまるでロック・スターみたいな格好をしてるし、女性関係も同じようなもの。で、ファンもけっこう共通しているのかも。コメディアンはみなライヴ・ショーをさかんに行うし、ファンもそれに熱心に通い詰める。ロック・コンサートに行くのと同じ感覚で来ていると思うよ。

 

デヴィッド ロックとコメディの結びつきは、イギリスでは昔から盛んだったと思いますよ。私たちのライヴ・ショーにも、たくさんのミュージシャンが来てくれます。ポール・マッカートニーやエルトン・ジョン、カイリー・ミノーグ…。

 

マット 若手だとザ・ストロークスやシザー・シスターズ、ホワイト・ストライプも。

 

デヴィッド このあいだ、イギリスのあるジャーナリストが「コメディは新たなロックン・ロール」だって言ってましたが、確かに、コメディアンがステージに登場すると、いまはロック・スターがもらうような歓声を浴びますね。コメディアンというと、ちょっと前まではダサい背広を着たさえないおじさんというイメージだったけど、いつの間にかカッコいいイメージになった。

 

茂木 すると、コメディアンという存在のあり方、ロック・スターという存在のあり方も、これまでとはずいぶんちがってきますよね。自分を笑いの対象として客観視できるかどうかが、スターのひとつの条件にもなってくる。バーンブルック氏は茂ーさんに「イギリス人は、つねに自分を笑えるということが美徳なんだ」と言ったそうです。

マット それはイギリス人にとって不可欠な要素だと思うよ。

デヴィッド そうですね。ただ、コメディアンにとっては、ちょっと微妙な問題かもしれません。私の友だちの言葉ですけど、「コメディアンにとっての最高の悪夢は自分自身が笑われることだ」と。

 

茂木 どういうことでしょう?

デヴィッド つまり、コメディアンがコメディとして笑いを創造するのは、自分という存在自体が笑われることを防ぐため、という考えですね。

 

茂木 ああ…。

デヴィッド そう。マットもそうだと思いますが、多くのコメディアンは、私も含めて、過去に意図せず笑い者にされたつらい過去を持っているんじゃないでしょうか。

 

マット うん。ぼくは昔から太っていて、しかも病気で6 歳のときに体中の毛が全部、抜けてしまった。だから小さい頃からイジメられてきたよ。だって、デブでハゲの子供だよ。おまけに大人になったらゲイであることに気づいた(笑)。それはイジメられないわけがない(笑)。

 

デヴィッド 私も、男子校に通っていて、さんざん女々しい男だってからかわれて育ったんです。男子校ではマッチョじゃない子は本当に厳しい環境にさらされる。当時の、女々しいとからかわれ、笑われた体験が、きっと「リトル・ブリテン」でも、私が過剰に女々しいタイプのキャラクターを創造した理由だと思います。エミリーやセバスチャンのような、ね。それはきっと、生身の自分自身が笑われることを防ぐために、先回りして過剰に女々しいキャラを演じて「これはギャグだ!本当の自分じゃないんだ」って防衛する意識もあるんだと思います。

 

茂木 自衛本能から来ている?

デヴィッド そう、まさに自衛本能だと思います。イジメられたり、笑われたりして育った子供は、屋外で元気いっぱいに遊び回る子供にはなりにくい。外でサッカーをやるよりも、自分の部屋にこもって、架空のキャラクターを想像したり、モンティ・パイソンのレコードを聴いて育つんですよ、きっと(笑)。

マット いまロック・スターとなっている人もそうでしょ。小さい頃はオタクっぽい人が多かったと思うよ。外で遊ぶよりも部屋の中でレコードを聴いて、ずっとギターの練習をしている、みたいな。

 

茂木 いまおふたりが言ったことは、ぼくたちが脳科学の分野で研究している事例と完全に当てはまりますね。自衛本能から生まれるクリエイティヴの素晴らしさの見本が、あなたがた「リトル・ブリテン」のコメディなんだと思います。

デヴィッド ええ。思うに、幸せで天真爛漫な子供時代を過ごすよりも、ちょっとだけ陰のある子供時代を体験したほうが、絶対にクリエイティヴにはなれますね。たとえば私が、社交的でいつも友だちと外で遊んでいるような子だったら、これほどコメディアンとして成功することはなかったでしょう。それが人生の不思議さであり、おもしろいところなんですね。だから、いまつらい目にあっている子供や若者がいても、決して悲観的にならないでほしい。いまのつらい体験が、いつかあなたのクリエイティヴィティを開花させるための肥料になるからって、私たちは訴えたいんです。

 


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リトル・ブリテン

ブリストル大学のコメディ・サークルで同級生だったマット・ルーカスMatt Lucas とデヴィッド・ウォリアムスDavid Walliamsのコンビが脚本執筆・製作・出演しているBBC の人気コメディ番組。2002 年から2006年にかけて放映された。ゲイ、少数民族、障害者など、タブー視されがちな題材を積極的に取り上げ、しかし、むしろ、そんな存在へ偏見を持つものを笑うような絶妙のコメディ番組となり、世界中で大人気となる。日本でも2007 年より英背放送でオン・エアされたほか、DVD のリリースも開始され話題となっている。


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