三好耕三が語る写真とは
162404 SBDH 2012 / SABI series
162302 Shima,Gunma 2010 / YUBUNE series
162538 Ohwani, Aomori 2014 / RINGO series
644 NE F-1 1990 / ROOTS series
13 An Pan,1974 / EXPOSURE series
写真とは見えないものを写す芸術のことです。
私は、ある潜在意識を伴った情景を眼にしたり、その気配を感じた時に、あふれ出るバイブレーションを写真という平面に置き換えることで表現する。私が今までに体験した現実の情景や、あるいは、眠りから覚めたばかりの瞬間や、夢想として希望を託した情景が潜在意識となってそのもとにある。これらの多くは、幼い頃の体験がある光景となって私の脳裡に残っていて、それは例えば、ある初夏のこと、野原で山百合の鮮やかなオレンジ色の花粉が真白いシャツについてしまった時の驚きであったり、また、病弱だったために病院のベッドに横たわる自分の体が、しだいに小さくなるように思え、本当の物の大きさの判断がつかなくなってしまったことなどがある。これらの潜在意識を伴った情景を写すことと同様に、私にとって重要なことは、子供が言葉を覚えたての頃、「これはなに?」「どうして?」と聞くように、いつでも「これはなに?」「なぜ?」と自分自身に問いかけることである。私は写真をとおして、眼の前の情景すべてに対して、同じ問いかけを続けている。/ 1981
107 Light Waves,1981 / SEE SAW series
103 Tire,1979 / SEE SAW series
102 La Mune,1978 / SEE SAW series
226 Hirauchi, Aomori 1985 / INNOCENTS series
406 Higashiyama III, Aichi 1989 / CONSERVATORY series
1016 AZ9217,1992 / CACTI series
323 Yokote, Akita 1986 / PICTURE SHOW series
傍観 PICTURE SHOW
陽も昇りつめた朝、街を大きく迂回し余り険しくないと思われる峠を越え隣り街につづく国道に沿ったこの街を一望できる土手の上で先程までの一人遊びの心身の火照をいやしている。あの惑星とも思われる巨大な提灯に、遭遇したのは昼間の熱気が少しやわらいだ待宵時であった。それは重厚な鈍い光を放ち、近郷近在の人々を駆り立たせるには充分過ぎるほどの装いであった。私もその光の輪の中へ宿命的な順序で消えていく自分自身を想像し、云い知れぬ安堵と恐怖を覚えたのである。時間が過ぎ、宴も過ぎた。そこに残ったものはあの巨大な提灯と陽が昇れば朝がくるという時点、そしてすでに仮生した自分だけであった。その調和のとれた気配の中で提灯と朝霧の薫りをふくんだ風が戯むれの次元を垣間見ていた。それはまるで静止していた宇宙が、俄に活動をはじめ、輪廻という自然を呼び起させたさまであった。これらの周りのものたちは、陽が昇ることを怖れていた。そのことは、もう一つの自然が息吐くことであり、私のこれらに対する永遠とも一瞬とも思える情感が断ち消されるからに他ならなかった。空にはこの季節にはめずらしく街をすっぽり影の中につつんでしまう雲が浮いている。光と影の境はこの土手のあたりである。見下ろすこの街を見ている瞳孔は妖しげで、光の中であるか影の中であるか観覚できない。しかし、すでに体の何れの機能が、峠を越えた街を詮索しだしている様だ。
906 Cochise College Airport AZ 1994 / AIR FIELD series
AIR FIELD
すでに廃坑になっている銅鉱山のある町の町外れに、滑走路の目印のオレンジ色の吹き流しが無ければ、ただの空き地同然の飛行場があります。ある日そこを通りかかると、澄ましげに尾翼を、おとした双発機が、強い陽にさらされて、この地上のものとは思えない銀色の塊のように怪しげに輝いています。近づいて見ると、数十年も時空間を旅している、その機体は摩擦により、いくえにも細かい傷がはしり、それはまるで素描画のようです。その曲線の機体を支えている幾千幾万のリベツトは、自分の役目をとっくに忘れ、一つ一つが上等な職人に掛かった飾り物です。そっと翼に手のひらをつけると同時に、ヘイ、若いのと、エンジンの中から人の声が。真昼の太陽に焼付けられた機体の熱さと、無人と思いこんでいたのに、突然の人の声なので半フィートは、飛上がった思いです。修理の手を休めたその声の持主は、私を「若いの」と、言えるに充分な年かさの老人です。手についたオイルをボロ布で拭いながら、ボソボソと独り語とのように、話し出しました。 こいつを五年前に手にいれた。そう、もう一度、逢いたくて飛び続けているのさ。 まだ、右も左も上も下にも翔べない、若僧の頃だった。ただまっすぐ飛ぶことしか知らなかった、ただ速く正面に突き進むだけだった。南の島の基地から基地への移動の時だった、いくつもの積乱雲の間をくぐりぬけ、眼下の雲の敷物に自分の機体の影を映して、飛行中だった。誰かが耳もとでささやくのよ、「翼の上をごらん」と。自分を、目を疑った。翼の上に天使がいるのさ。時々こっちを見ては微笑かけてくるのさ。驚いたことに、そいつはゴーグルまでしていたのよ。これだって飛行機乗りの端くれさ、計器を確認した。すべてが正常さ。仲間との編隊飛行はお手のものだけど、こんな事は初めてだ。その時、はじめて横を向いたのよ、その時から横を向けるようになったのさ。お陰様で、それから数年務めた南の島から、無事に戻れたのさ。嫁さんもらって、子供もできてしばらくは忘れていたのさ、飛ぶことを。定年したその年に、巡り逢ったのさ、南の島で飛んでいたこの型と。北にも飛んだし西にも飛んだ、海を越えた国にもいってきた。いまじゃ、飛んでいればそれでいい、飛べることを感謝している。この旅に出掛けるときも誘ったさ、でもかみさんはいうのさ「天使に逢いに行くには私は邪魔だろう」って。 限りなく続く青空に、まぶしそうに瞳孔を見据えて、いつまでも独り語は続きます。すでにもう、聞き手が上の空とも、わからずに。
162303 Yunotsu,Shimane 2010 / YUBUNE series
YUBUNE・湯船
以前、印画紙を湯水のように使っていた。そんな表現に似合う位、暗室に明け暮れていた時期があった。かねがね思っていたことに、温泉はそのように言われる位に、津々浦々で容易く浴する事が出来たのであろうか。そして思い立ち、神世の時代からこんこんと湧き出ている温泉を巡ってみた。温泉は自然科学的にして、崇拝の対象にして、国中で湯水が沸き出しているのである。そんな温泉には古い時代からの温泉場であれ、新しく掘り当てた温泉であれ、野湯と言われるものまで、そこには老若男女が笑みをたたえ、まさしく裸の付合いとゆう晴れの姿で集っていた。
春の花冷えのする、小糠雨が纏わり付く様に降り出した夕方に、以前から気になっていた、南国のとある温泉に向かって車を走らせた。道中ほとんど晴れる事なく一日半かけてたどり着いた時も前線が停滞しているのだろう、相変わらず雨はしとしとと降り、止むことはなかった。やっとたどり着いた湯のある街は、子供の頃憧れの左のバッターボックスに立つ名選手の生地である事だけが唯一の知識だった。その湯は川端から一本入った路地に裸電球が営業中の証を灯し、ひっそり佇んでいた。迷う事なく滑りの悪い引き戸をぎこちなく開け気配を伺い、慎重に毎度の事として大事な営みを乞うのであった。外は小雨が降り時分時の前であるので湯を使う人の気配はない。此処の主人はこの情景には場違いな長い髪を無造作に束ねた背筋がのびた女性であった。多分父親が亡くなり彼の思いを受け継ぐ為に大都会から戻って来たのだろう、話し言葉や仕草からそんな思いが察せられる。しきりの向こうで人の気配がした。午後の始めての湯を使う方だろう、その方との会話は異国の囁きのように聞こえた。この日は運良く私が撮らせて頂いた側には湯を使う方はみえず、半時でことがすんだ。レンズを外し機材を片付けようとした時、およそ四半世紀前のファミリーカメラを手にした先程の女主人が、遠慮がちに写真機と私の写真を撮らせて下さいと声をかけられた。こんなに緊張し、こんなに誇らしげに写真に納まる事は久しくないことだろう。依然外は雨、ガラス窓から入る光は鉛色、かすかに聞こえるのは湯船からあふれる湯の調べ。
3010 Junction, UT 2008 / ON THE ROAD AGAIN series
On the Road Again
なぜロード・トリップに出かけるのか、自問もすることも多々あった。 ロード・トリッはメディテーション。ただフロントガラス越しの視界と対峙して、最低限の約束を肝の片隅に預けおき、あとは確かと座するだけ。出かけた頃は周りのしがらみ見え隠れ、その時分の視界は日常と非常の情景が35mmのスナップのようで面白い。時間と距離の重なりが、上手い具合に織りえたら、その時点で合間の時空に捩れ込む。幾多の作法はあるけれど、一番の手前勘は二十幾余の引き出しを開けては覗きまた戻す。これが私のお手前で、これが私のメディテーション。ドライビング・ハイとは違うのだ。当初の頃は目的地を目指しても、目指したものが目的地でないので、到達しても目指したものが思い描いていたものとかけ離れていると思い込み、目指したものに眼もくれず、次の目指すものに突き進んでいく。耐久時間が数週間、1ヶ月と長くなるとこの有様は達磨如きの様相だ。しかし最近のロード・トリップは時と共って来た。しかし本当の目的は何かを探しに、繰り返し、繰り返しRoad Tripに出ることだ。Again and Again and Again. 今日があるのは今日だけだ。 昨日、遅めの午後に降り立った北西部の街からに様相も変わってきた、それにつれ自分もそれも変わって来た。以前の旅では目的地は副産物だった、近頃は副産物としてでなく、目的を果たすようにな州間道路を数十マイル南に向かい、その街の郊外のロードサイドに幾つかの馴染みの名のあるモーテルから8の看板のモーテルに部屋をとった。三脚を使わない写真機を使っていた時分は、降り立った飛行場から即旅が始まり、最初の日から数百マイルもの先の彼の町まで何かに急かされ、韋駄天に取り憑かれたように、移動してしまったものだ。いくら走っても走り尽くせない大平原、真っ赤に染め上がる夕焼け、昼間の大地の温もりを背中に感じて仰ぎ見る満天の星空に架かる天の川。何がそうさせたのか、若さや体力だけではないはずだ。一時でも早く見知らぬ場所や、見知らぬ時間を見つけたく、ただひたすら馬車馬のように突っ走るしかしょうがなかった時期だったような気がする。今ではあの時分の行動や振る舞いが佳きも悪しきも、現心の事なので心底それが懐かしい。二度寝の夢心地の中、遠くに聞こえる貨物列車の入れ換えの連結器の重なる響きで目が覚めた。ペイズリー模様の厚手のカーテンからは乾いた朝の光が溢れている。今朝は遅めの朝食だ。点滅の信号機が一つある一筋だけの商店街の角にある、程よいカフェでオーバーイージーとベーコンで。勿論、目覚めの感触には慌てさせるくらいの重さのマグカップはデコラのテーブルに着いた時、「おはよう」の挨拶と一緒に鎮座する。そして私の最後の晩餐はグリーシースプーンのメニューと決めている。大きなノブを回して出た外は、すでに大分陽は昇っていた。すでに州間道路からは外れていて、瞬く間に草原を黒いアスファルトが切り裂くような、いつもの慣れ親しんだ景色に吸い込まれて行く。遥か彼方に、まだ頂に残雪が残る山脈が、女性の仰向けのシルエットで心なしか揶揄いの体で横たわっている。その山懐に続くその道は私のロード・トリップには、程良い時空移動の道程だ。この山を大きくS字に登りきった峠から、さらに町らしき町がない荒野を百二十マイル西に進んだその先に、この旅の最初の副産物の場所がある。Topaz Internment Camp Site.
1902 Harajyuku,1998 / TOKYO DRIVE series
2372 Nakayama,Yamagata 2002 / SAKURA series
3012 Newberry Springs, CA 2008 / ON THE ROAD AGAIN series
549 Sukho Thai 1987
1009 AZ9210,1992
三好耕三とdictionary
昔々その昔、霞町にCATCH BOXと言うお店が有りました。そこで19歳の茂くんに会いました。まだあの当時はShigeruくんなのです。
それから随分たった大分前のことで、よく覚えていませんが、ある時今日から「茂一」ですと告げられたその時の午後の光をどうしたわけか、いまだに覚えています。初対面から凡そ半世紀、50年近くの付き合いになっていて、これから先どの位続いて行くことやら。その長い年月の間に幾度か彗星のように接近して光を放ち、確かな音色を彗星の尾のように放ちいく年かの間隔をおいて、次の彗星が別の輝きを放つがごとく、時間を共有し続けて来たのです。遠くは初代の硬派なRolling Stone誌のスタッフだった時、大判写真雑誌を作った時の影の囁き、関西版スネークマンショウのカセットテープがFENから変わった時期、マークアーモンドの心をくれた茂一くん、1ヶ月の毎晩電話攻撃で撃沈した、レコードジャケット撮影事件、当時の流行のレストランで紹介してくれた、一生付合う事になった堺商人。この時分はまだ1970年代後半です。まだまだ話はキリがなく続きますが、思い出は作るもので、振り返るものではないと決めています。本題に戻ろう、確かdictionaryは幾度かフォーマットを変えたと記憶しています。確かCDのケースのサイズの時もあったと思う、そのサイズが好きではなく、その理由が好きだった。dictionaryは面白いメディアだ、でももっと茂一くんは面白い。続けて下さい。
2508 Koiwa,Edogawa 2000
三好耕三
Kozo Miyoshi
1947年千葉県生まれ。日本大学芸術学部写真学科卒業。1979年フォト・ャラリー・インターナショナル(P.G.I.)で個展。以来国内、外で個展、グループ展を開催。作品は国内外の大学、資料館、美術館等に収蔵されている。
“ 最近古希を無事に迎えて、やりたいことが益々はっきりしてきてさ。”
えっ古希?三好くんってそんなに年上だった?失われた最初の出会いからその風貌も接する態度も私の良不良に関わらずまったく変わらない。煙が目に滲みるあの頃は年の差や人間の優劣で態度を変える輩は私の周りには皆無だった。常に凛とした三好くんの視線は人間はもとより植物や動物や鉱物にさせ不変で静的だ。もしかしたら男の観音様かも知れない。本物の写真と世界が認めるのは技術や経験値を超えその写真家の美しさを認めるときではないか。三好耕三という美しい人にこの世で出会えた喜びと感謝をめちゃんこ噛み締めている。
桑原茂→
三好くんと初めて知り合った頃、みんなで遊園地に遊びに行った時の写真です。茂くん(私)が写しました。