Back to the CLASSICs vo.01 by SEALDs

文章構成 牛田悦正/ 神宮司博基 ページデザイン 内山望

彼は古い粗衣を身に纏い、頭から灰をかぶった。
これは、愛する子供か配偶者を亡くした者にしか許されていない行為だった。
ここぞというときの衣装を身につけ、苦しみを演じながら、ノアは再び街に向かった。
住民たちの好奇心、悪意、妄信を、うまく逆手に取ってみせるぞと覚悟を決めていた。
ほどなく、ノアのまわりには野次馬たちが群がってきて、口々に質問を浴びせ出した。
誰が亡くなったのか、誰が亡くなったのか、と人々は尋ねた。
ノアは、多くの人が亡くなった、しかも亡くなったのはあなたたちだと答え、聴衆はこれに大笑いした。
人々がいよいよ注視し、狼狽すると、これに乗じてノアはもったいぶって立ち上がり、こう語った。

「明後日には、洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろう。
洪水がすでに起きてしまったときには、今あるすべてはまったく存在しなかったことになっているだろう。
洪水が今あるすべてと、これからあっただろうすべてを流し去ってしまえば、もはや思い出すことすらかなわなくなる。
なぜなら、もはや誰もいなくなってしまうだろうからだ。
そうなれば、死者とそれを悼む者の間にも、なんの違いもなくなってしまう。
私があなたたちのもとに来たのは、その時間を逆転させるため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。
明後日になれば、手遅れになってしまうのだから。」

こう言って彼は自宅に戻り、身につけていた衣服を脱ぎ、顔に塗っていた灰を落とし、自分の工房に入っていった。

晩になると、一人の大工が扉をたたき、こう言った。

「方舟の建造を手伝わせてください。あの話が間違いになるように。」

さらに 夜が更けてくると、今度は屋根職人がこう言って二人に加わった。

「手伝わせてください。あの話が間違いになるように」。

“Tomorrow is already here”

フランスの哲学者ジャン- ピエール・デュピュイは、『ツナミの小形而上学』と題された小さな書物の冒頭に、ある寓話を紹介している。
モチーフとなっているのは、「創世記」ノアの方舟の物語で、その大まかな筋書きをスケッチすると、神が地上において人が悪をなすのを見て、人を造ったことを悔やみ、心に痛みを覚えたためすべての人々を地上から大洪水によって破滅させることにした。しかし信仰に篤く善良なノアを残すことを決め、方舟の建造を命じ、そこに家族と、すべての種類の動物をつがいで入れさせた。そのため、ノアは40日と40夜続く大洪水から助かることが出来た。ノアはその後生まれる人類の祖先になったと言われている。
このノアの方舟の物語とデュピュイが紹介したノアの寓話が異なっているのは、寓話ではノアは、自分たちだけが方舟に乗って助かるのではなく、やってくる洪水から「どうやったら人々を救うことが出来るか」考えるという点だ。しかしノアが大洪水が来ること、未来にやってくる破局を予言して人々を救おうとしても、人々はそれを笑いものにし、誰も真に受けることがない。
冒頭に引用したのは、そんなノアが破局が来ることを人々に何度告げても真面目に取り合われないことに疲れ、それでも破局をどうにかして人々に信じさせて、それを免れるための行動をとらせるために取った、「破局がもう来てしまった後」の時間を「今日」に演出する一場面である。

「誰か亡くなったのか、誰が亡くなったのか、と人々は尋ねた。ノアは、多くの人が亡くなった、しかも亡くなったのはあなたたちだと答え、聴衆はこれに大笑いした。『その破局はいつ起きたんだ?』と尋ねられると、ノアは『明日だ』と答えた。」
「『明後日には、もう洪水はすでに起きてしまった出来事になっているだろう。/『私があなたたちのもとに来たのは、その時間を逆転させるため、明日の死者を今日のうちに悼むためだ。明後日になれば、手遅れになってしまうのだから』」

するとこれは、少数の者を気付かせることになる。

「晩になると、一人の大工が扉をたたき、こう言った。『方舟の建造を手伝わせてください。あの話が間違いになるように』
さらに夜が更けてくると、今度は屋根職人がこう言って二人に加わった。『手伝わせてください、あの話が間違いになるように』」。

破局が来ることを何となく知っていたとしても、本当に信じ行動しなければ、それが本当に来た時にはもう遅い。その時には洪水がすべてを流し去り、「もはや誰もいなくなってしまう」。しかし、もしその未来の破局の予言を一旦受け取ることで、それを「間違いになるように」行動を起こしそれが成功した時には、その予言は間違っていたことになる。もしかしたら、そんな努力は必要なかったのかもしれない。そんなパラドクスがここにはある。それはしかし、人々が知っていながらも、どうしても本気では信じることが出来ないという性格を持たざるをえない破局を回避するための、実際的な方法でもある。

未だ来ていない、しかしいつかやって来る「破局」の日から今を考えること、こうして時間の見方を変えることで、デュピュイは何とか破局を避ける方法を提示する。その考え方はまた、彼によって引用されるアメリカ先住民の言葉「大地は七代先の子孫からの預かりものだ」という考え方と響き合っている。なぜ、破局は回避しなくてはならないか。それは私たちの大地を「7代先の子孫」へと返し渡すためだ。私たちは、私たちの次に生まれる子どもたちの子孫から今を預かっている。もしそうであるならば、「未来はすでにここにある」。そしてその今も、無数の過去の人々から、渡されたものなのだ。

こんな考えを読むうち、6 月から10 月、国会前で、渋谷で、それともどこかの路上で聞いたスピーチにも似た考えを聞いた覚えがする。これから来る「破局」の音を聞き取って、それが「間違いになるように」と動き出した一人ひとりの声に、きっと哲学など、意識しないでも生まれたそんな言葉があった。そこには「自由」や「憲法」、あるいは「平和」といった言葉で語られる私たちに渡された価値を、子孫から「預かったもの」として次へと繋いでいく意志があった。このページをめくれば、その例を読むことが出来る。

「私は30 年後の未来で『戦後100 年』という言葉が当たり前のようにそこに在ることを望みます。 」
「無数の人々の声と記憶。それが、今の自分達のなかに息づいている。受け継がれていくんです、未来へ。/過去から、未来から、生まれ来る子供たちから、私たちが問われています。その問いにどう答えるか。声をあげるときです。」

もちろん、ここには誰も預言を与えられた者はいない、ノアのように未来は知らされない。だからきっと、行動することは必然的に賭けになる。それでも何かせざるを得ないのは、すでに4年前から「破局の後」であるこの国で、もう誰もどんな破局が起きないとも言えないからだ。それでも私たちがまだ持ち、享受している価値を、未来に渡すためだ。
未来から今を考える。その時破局がやって来るとしたら、今、何をせざるをえないのか。「あの話が間違いになるように」

神宮司博基

Speech01___Wakako Fukuda

「もちろん、普通の人間は戦争を望まない。しかし、国民を戦争に参加させるのは常に簡単なことだ。国民には攻撃されつつあると言い、平和主義者を愛国心に欠けていると非難し、国を危険に晒していると主張する以外には何もする必要がない。この方法はどんな国でも有効だ。」これは、ドイツの政治家ヘルマン・ゲーリングの言葉です。この言葉に異様な親近感を持ってしまうのは果たしてわたしだけでしょうか。

二年前のこの時期、私は特定秘密保護法に反対する意を示すため、初めて路上に立ちました。それまでデモなんて私の生活の中にはどこにもなくて、けれどその時肌で感じた違和感に抗うことができなかった私はそれらを生活の中へ迎え入れることに決めました。

あっという間に月日が流れ、一ヶ月前の九月十九日に安保法案は成立しました。

国民の過半数が説明が不十分だと感じている、そんな安保法案が違憲立法であることは既に周知された事実です。私は、戦争へ加担する可能性を高めるこの法案に対し、押し黙っていられるほど自分の未来に無責任になることはできませんでした。

今回、安保法案に対し反対の声をあげていく中で、私の手元にやってきたのは圧迫感でした。とにかく、息が苦しくて仕方ない。それは、安倍政権の行う政治そのものが私にとって恐ろしいほどに抑圧的であったからです。(中略)
疑うことに未熟であったばかりか忘れるということに長けており、さらには言葉を紡ぐという行為を無礼なまでに放棄した人々の放つくぐもったそれらは私の肌にぴたりと張り付き呼吸を妨げるのには充分でした。法案成立後、何が変わったのか、と何度も聞かれました。まるで何かが成し遂げられたかのように、結果を、成果を求められました。私自身が、自分の声で、足で、民主主義に賭けたのはわずかここ二年間の話です。そん
な短いあいだに社会を大きく変えることができたのならば、今なお世界中にはびこっている差別や戦争や貧困は、来年には全て消えてなくなるでしょうとお答えしました。

70 年間、日本はどこの国とも血を交えることなく平和を保ち続けてきました。

けれどそれは、ただ憲法があったからというだけのことではありません。いつだってどこかで、誰かが、日本国憲法の保障する自由と権利を保持するための不断の努力を積み重ねてきたからです。声をあげることは、おかしいことにおかしいと言うことは、決して特異なことではありません。歴史の教科書の片隅にも載らないような誰かが、そんな多くの誰かがずっと、ならし続けてきたその道の上を私は今こうして歩くことができます。日本が民主主義の国である以上、いつかその順番はやってくる。今回こうして廃れきった社会と荒れ狂った政治は思わぬタイミングで私にバトンを回してきました。私達の、番なんです。その道をならし続けることは決して容易ではないでしょう。しかし私はその役目を喜んで引き受けることができます。なぜなら私は思考することを放棄しないからです。そしてこの国の未来に対し極めて真剣であるからです。

希望の光を未だ見ぬ絶望の世代は、いつだって前を向くことに長けている。これから明るくなるしかない場所に立って、やっと掴みかけたその淡い光を手探りで、しかし確かに繋げることを諦めることなく続けてきました。その明かりの火種はまたひとつ、時の政権とその暴挙を許した社会によって踏みつぶされてしまったのだけれど、私はもうその暗さを怖れる必要がないということも知っています。在るべきものを守り続けるために、何度でも何度でも諦めることなく進んでゆく。それは絶望の世代の何よりの強さに違いないでしょう。

こうして集まった、不断の努力を体現する全ての人たちへ、私は感謝と敬意を述べたいと思います。いつだってどこでだって、こうして民主主義は、平和は、紡がれてきたのです。社会をよくするために、英雄になる必要はありません。知性への敬意を捨てず、想像し思考することを放棄せず、そうして前を向き続けること。

私は30 年後の未来で「戦後100 年」という言葉が当たり前のようにそこに在ることを望みます。信じます。そしてそのための努力を続けることを、ここに誓います。

2015 年10 月17 日、私福田和香子は安保法案に反対し、安倍政権に退陣を求めます。有難うございました。」

Speech02___Nobukazu Honma

「戦争法案とも言われる安保法制が、いよいよ採決されようとしている。こんなことが許されていいのか。日々、不安と怒りがよぎります。
安倍政権は、さながら大日本帝国の亡霊のようで、この国に戦前から未だ通底している、ファシズムの影がちらつきます。自民党改憲草案、特定秘密保護法、今回の安保法制、一つ一つのイシューを全体として捉えたとき、そこにあるのは“ 戦前回帰”以外の何物でもない。だけど僕は、昔の日本にそんなに憧れと言うか、回顧するようなものもない。生まれたときはバブルも弾けたあとだった。小学校2年で9・11 高校2年で3・11 を目の前にした。終わってんなら始めるぞ、そっちの方が共感できる。終わってしまった幻想や夢物語への郷愁などない。

けれど勉強をすすめるなかで、自分が過去からある大きな恵沢を享受していることに気づかされました。それはなにか。平和です。お金ではなく、武力でもなく、この国の一番の宝は平和でした。もちろんそれは、沖縄の多大な犠牲の上に成り立っていましたが。けれど、曲がりなりにもこの国は戦争に参戦してはこなかった。それを支えていたのは、間違いなくこの国の憲法、日本国憲法の文言と理念です。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

自分もそう誓いたい。これは大昔に偉い役人が決めたものでも、誰かから押し付けられたものでもない。これは俺自身の言葉なんだ。俺はそう思う。戦後日本の平和と民主主義の歩みを支えたこの言葉と意思、そして理念は、脈々と子から子へと受け継がれ、それは間違いなく自分自身の中にも息づいている。それは、俺が日本人だからというだけのものではない。単純に人間として、この宣言が素晴らしい、守るべものだと思うんです。

70 年前の戦争で死んでいった人々、生き延びて戦後日本の平和を担った人々、数え上げればきりがない、鶴見俊輔、奥平康弘、丸山眞男、無数の人々の声と記憶。それが、今の自分達のなかに息づいている。受け継がれていくんです、未来へ。君たちはどう生きるか、そんなタイトルの本もありました。過去から、未来から、生まれ来る子供たちから、私たちが問われています。その問いにどう答えるか。声をあげるときです。今答えを出しましょう。安部政権には、退陣してもらうしかないと。
憲法と民意をここまで愚弄した政権は、戦後初めてといっても過言ではないでしょう。絶望することはありません、追い詰められているのは彼らの方です。何度でも繰り返しましょう。私たちには力がある。自分の頭で思考し、行動する力が。そうやってここに集まってる。彼らにそれを、止めることはできません。
戦い続けましょう。この一週間、歴史的にも本当に大事な一週間です。やれることは、文字通り全部やりましょう。

2015 年9 月14 日、本間信和、私は、安保法制に反対し、安部政権の退陣を求めます。」

「 そこにいるのはわたしである」

SEALDs は誰にも命令されることなく、孤独に思考し、路上に立ち、声をあげる学生が偶然そこに集い、その集合体が名を必要とした時に結果として与えられた一つの名である。SEALDs は原理的には団体ではないが、メディアがSEALDsを一つの組織として取り上げることで、世間には「団体」として周知されるようになった。
こう言えば些か無理があるだろうか。確かに、メディアに取り上げられた画面上のSEALDs 像をキャッチーに保つためにも、それなりの規模のアクションを起こすためにも、SEALDs はみずからを戦略的に団体と見なし、組織として運営してきた。しかしSEALDs が団体として受け取られ、事実上、組織化されたものであるとしても、やはり原理的には「団体」ではなく、「個人」の集まりであり、その理念をフィクショナルに掲げるのを諦めることはなかった。

その理念はSEALDs のスピーチにおいて体現される。ここにあるのは紛れもない個人の、一人きりで紡がれた言葉̶̶語られる1人称は常に「私」であり、「私たち」ではない̶̶であり、自分自身に向けられた誓いである。「私は主権者である。私はそれを担う。いつだって自由と民主主義のために戦ってきた人たちがいた。今度は私の番だ」。しかし、演劇の中の独白が単なる独り言ではなく、それを見るものに何かを訴えかけ、その訴えを受け取ったものたちに共通の感慨をもたらすように、彼( 彼女) らの孤独なスピーチは国会前の暗闇を縫って、それを聞く人々にあること気づかせる。それは聞いている自分も「主権者」であるということだ。国会前の舞台上で演じられているのは他でもなく「主権者」であり、それを見るものは演劇の主人公に自分を投影するように、国会前で孤独なスピーチをする「主権者」に、いままさに国会前に孤独に立ち尽くす自分を投影し、自分も「主権者」であるということを再確認するのである。

芸術家、とりわけ演劇人こそが、はじめて人びとに目と耳を授け、自分自身のひととなりや、自分の経験や意欲といったものを、そこそこの満足をもって見たり聴いたりできるようにしてくれたのだ。
彼らは、われわれ凡人すべての内に眠っている英雄(ヒーロー)をきちんと評価することを教え、じぶんを遠くから眺め、いわば単純化して美化することでみずからを英雄と見るすべを授けた。___つまり、自分にとって自分を「主役にする」すべを。
(フリードリヒ・ニーチェ『喜ばしき知恵』(村井則夫訳))

牛田悦正

参考文献
『カタストロフからの哲学ージャン・ピエール・デュピュイをめぐって』渡名喜庸哲、森元庸介編著(以文社、2015 年)
『ツナミの小形而上学』ジャン- ピエール・デュピュイ、嶋崎正樹訳(岩波書店、2011 年)
「ここにある未来̶ジャン=ピエール・デュピュイとの対話」
『アフター・フクシマ・クロニクル』西谷修(ぷねうま舎、2014 年)
『喜ばしき知恵』フリードリヒ・ニーチェ、村井則夫訳(河出文庫、2012 年)

SEALDs(シールズ:Students EmergencyAction for Liberal Democracy – s)は、
自由で民主的な日本を守るための、学生による緊急アクションです。
担い手は10 代から20 代前半の若い世代です。
Web site http://www.sealds.com
Twitter https://twitter.com/SEALDs_jpn
facebook https://www.facebook.com/saspl21

”BACK TO THE CLASSICs” について
ヒップホップで、時代に左右されることなくずっと聴き続けられる作品をクラシックと言うように、「古典」に限らず、本、音楽、映画、数多ある普遍的なクラシックを探求していく連載です。

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