Back to the CLASSICs vol.12 Tattoo of words 言葉の刺青たち

音楽、哲学、アートを探求する20 代前半を中心とするメンバーの視点から、新しい「クラシック」を紹介する連載。どんな歳月にも堪えうるどころか、年を重ねるごとにその新たな魅力を発揮し、暗い未来をいつまでも明るく照らし続けてくれる、そんな「クラシック」を共に探しませんか?

言葉が刻まれた石である碑文の「碑」という言葉にはもともと、「石に刻まれた音符」という意味があるらしい。言葉が刻印された石碑の前に誰かが来るとき、その意味の音符は、読む人の頭の中で音になって再生される。そのようにして、言葉は時代を超えて記憶されるために石に刻まれる。

しかしきっと、忘れないために記録する大きな石を持たなくても、人は誰でも自分自身の中に言葉を刻印するための場所を持っているはずだ。そこでは、たとえば大好きな歌の一節やいつも同じ季節に見返してしまう映画のセリフ、大切な誰かがふと口にしたいつかの言葉や、何度も読み返してボロボロになった本の一文が音符のように刻まれて、心の中でことあるごとに口ずさまれる。

目には見えない刺青のように、掘ることのできる数には限りあるそれらの言葉たちは、その人自身を飾りたてたり、深いところで心を鼓舞して、勇気を与える。暗闇の中でも口ずさめば進んでいけるメロディーのように、何度も繰り返して読まれる言葉が誰にでもあって、音符を刻む石碑のように心に刻まれているのではないか。

今回はそんな目に見えない「言葉の刺青」というテーマで、それぞれがことあるごとに読み返し、心に刻んできた言葉たちを紹介します。

Vivre,
c’est s’embarquer sans
savoir oÚ l’on va.

生きること、
それはどこにいくのか
知らぬまま乗り出すことだ

-Pierre Legendre L’animal humain et les suites de sa blessure より

「(乗り物)に乗る」を意味する”s’ embarquer” という動詞には、目的語が欠落している。「何に」乗せられるかは、明示されていない。僕たちは「運命」の「重力」にただ乗せられているだけなのだ。西洋語で運命を意味する”Fortune” は「落ちる」という意味のラテン語”Fortuna” に由来を持つ。人間の運命は否応なしに、「重力」に逆らうことができずに「落ちていく」、悲劇的なものである。確かに、僕らは国籍も、母国語も、両親も、友人も、自分の好きに選べず、その運命に乗せられて、あらゆる悲劇のただ中で、その悲劇に抗して生きていく種なのである。

face1牛田悦正
1992 生。Rapper。ヒップホップバンド「Bullsxxt」のMC。1st アルバム『BULLSXXT』を10/18 に発売予定。著書多数。

まず基本的に「自分は一人で生きていく」といじけ気味の強い覚悟を決める
その上で、もし「一緒にいたい」と言ってくれる人がいたら、心から感謝して共に生きる
注意
決めた覚悟は絶対捨てない事 ずっと心の奥にしまっておく事
ヒキョウだけど僕にはこれしかない

-古谷実『シガテラ』6より

もっとも好きな漫画のひとつである『シガテラ』の主人公、荻野のモノローグから。
いじめられっ子で何の取り柄もなく、自分に自信がない荻野はせっかくできた南雲さんという可愛い彼女さえも「自分といれば不幸にしてしまうのではないか」と思い悩む。そしてとことん悩み抜いた後に荻野が出した答えは南雲さんを「不幸にするまで幸せにする」ことだった。誰かと一緒にいたいのに、自分から「一緒にいたい」とは言えない。不幸にしてしまうかもしれないから。「俺が幸せにする」みたいなことも言えない。自分に自信がないから。これは確かに卑怯だ。でもどうしたってそのようにしか生きられない人間もいて、そういう人にとっては、「これしかない」としか思えなかったりする。アー、もっと無邪気に人と関わることができたら、と常々打ちのめされている私の指針となっている言葉だ。

憧れや名誉はいらない
華やかな夢も欲しくない
生き続ける事の意味
それだけを待ち望んでいたい

-山下達郎『蒼氓』より

せっかく生まれてきたのだから人生において何事かを成したい、多くの人に認めてもらいたい、というのは誰でも思うことなのだろうか。ときにはそれが推進力となって生きようと強く思えることはあるだろうが、どうも人生はそれだけじゃない。

かといって、生きてることに何の意味もないんだから、というのもやはり違う気がする。口だけならそうも言えるが、「何の意味もない」という、その虚無を真正面から受け止めることができるほど人間は強くない、と思う。

だから「待ち望んでいたい」のかもしれない。人生というのは夢を叶えるとか名誉を授かるとかだけが全てではなくて、でも何もないわけではない。でもそのどちらでもない「意味」みたいなものはきっとあるというその存在への確信というか、泣き笑いある人生への期待を歌った歌だと思う。ある時期にはこの曲ばかり止むことなしに聴いていた。

face3小林 卓哉
1992年生まれ。大学在学中、保坂和志とロラン・バルトに感銘を受け文学に強い興味を抱く。
現在都内で販売員をする傍ら執筆中。

時間に洗われた事物が、最小の粒子となり遍在している。からだが魂の器であると同様に、本も手紙も、それらが燃やされて生じた灰も煙も、言葉の鱗片を宿している。そもそも言葉こそが魂の器、つまり景色や音を運ぶ舟であり、森羅万象の無数の塵芥だった。分解した肉体のきれはしに魂が少しずつしみ込んでいるように、言葉とそれに宿るものは、最小の単位になってもなお溶けあっている。そのうちの幾ばくかは、地上的な意味への結合を手放して、景色や声の破片のままで過ごすことだろう。いっそう時間に洗われながら、起きたことと起きなかったことのいっさいが攪拌された均質な霧となり、どこまでも遠く無辺にひろがってゆく。世界は言葉でできている。雨も雪も森も、このからだも言葉だった。

-福田尚代「片糸の日々」(『ひかり埃のきみ』所収)より

確かに私は絵画と彫刻をやっている
そしてそれは初めから、私が絵を描きだした最初から
現実を捉えるため、自らを守るため
一層よく攻撃するため、掴むため
あらゆる面であらゆる方向に可能な限り前進するため
飢餓に抗し、寒さに抗し、死に抗して自らを守るため
可能な限り最も自由になるためだ
可能な限り最も自由になるのは ̶̶̶
今日の私に最も適当な手段で ̶̶̶ 一層よく見んがため
周囲のものを一層よく理解せんがため
一層自由になるために、一層よく理解せんがためだ
可能な限り大きくなるのは使い果たすため
私の冒険を敢行するため、新しい世界を発現するため
私の戦いを戦うためだ
戦いのよろこびのため? 戦いの歓喜のため?
勝ちまた敗れるよろこびのためだ

-アルベルト・ジャコメッティ「私の現実」(『エクリ』所収)より

「文体」とは何であるか。古くからそれは「言語の肉体」であるといわれてきた。「言語の肉体」とは何であるか。それは、言語のコノテーションとデノテーションとの重層だけではない。歴史的重層性だけでもない。
均整とその破れ、調和とその超出だけでもない。言語の喚起するイメージであり、音の聴覚的快感だけではない。文字面の美であり、音の喚起する色彩であり、発声筋の、口腔粘膜の感覚であり、その他、その他である。

-中井久夫「創造と癒し序説ー創作の生理学に向けて」『アリアドネからの糸』より

ミヒャエル・エンデの『だれでもない庭』や『モモ』に出てくる街には、辻しかないようである。
私に初めて書き込まれた文字のこと、「私」と名付けた誰かのこと。今は思い出せない言葉をこの目に捉えようとすることは、そんな辻ばかりの街を歩くことに似ていないか。
読むことや書くことは、あらかじめ出会い損ねた誰かに出会い損ね続ける闇雲の作業、賽の河原、停頓した夜行かもしれない。それでもなお、想像することをやめないのは何故か。それでもなお、書き続けるのは何故か。そして、そうさせるのは、誰なのか。
今よりも少し弱かった頃、勇ましく檄を飛ばされたかったわけでも、歩みを止めそうな私を奮い立たせるための理由が欲しいわけでもなかった頃に、ただ「読んでしまった」としか言いようのない言葉を、幾つか引いた。

p4三浦 翔
1992 年生。大学院生。監督作『人間のために』が第38 回ぴあフィルムフェスティバルに入選、現在「青山シアター」にて配信中。理論研究と作品制作を往復しながら、芸術と政治の関係を組み替える方法を探究している。

一体何が彼を叫ばせるのか、一体何が彼のモチベーションか考えたが、あれは戸張大輔が叫んでいるようで彼が叫んでいるわけではないのだと思った。彼はシャーマンのように歌の精霊を呼び寄せて歌わせているだけなのだ。だから、彼の音楽からは不思議なまでに自意識が一切感じられない。
随分スピリチュアルなことを言っているようだが、実際、音楽というのは基本的にスピリチュアルなものじゃないだろうか。音楽は集合的無意識のように宇宙のどこかにすでにあって、作曲というのはそれを探り当てる作業だと思う。だから、良い音楽というのは常にどこか懐かしく、デジャヴを感じさせる節がある。

-juriano / 日々の戯言より(http://d.hatena.ne.jp/juriano/touch)

 戸張大輔という日本のアンダーグラウンドの最奥地にいるようなアーティストの、現在確認されている内では最後に行ったライブのレポートの中の一文。
僕が作曲というものについて日々考えていることを端的に言語化してくれていて、初めてこの文章を読んだ時とても感動した。
音楽において懐かしさというものはとても重要な感覚の一つだとおもっていて、乱暴に言えば全ての良い音楽には「懐かしさ」というものが強く印象づいている事が多い。
その曲のメロディが郷愁を呼び起こしてくることもあるし、その曲を初めて聴いたはずなのに、何故かどこかで聴いたことあるような感覚になることもある。
音楽を聴いていてそういう懐かしさに触れた時の独特な感覚は、上手く言葉には出来ないがとても不思議な感覚だ。
もしjuriano さんの言う通り、音楽というものが集合的無意識として宇宙のどこかにあるのなら、それに触れて強烈な懐かしさを感じる人間は一体どこから来たのだろうか。

face2加藤寛之
1994 年生まれ。神奈川県葉山町出身。趣味は楽器を演奏すること。毎回テーマに沿って選曲をしていく予定。「すばらしか」というバンドでベースを弾いてます。

私はいつでも暗中模索だし、おかげで一寸先は光のような気がしている

-長谷川四郎『山猫の遺言』より

先へ進まなければならない。極端に白けた部分と訳のわからぬ情熱のようなものが交互にやってきた。そしてどんづまりの毎日に入っていく。「外国へ行こう」と思った。その頃、若者は目的を持たず、外国へ出る風潮があった。自分とてハタから見れば、「夢物語」でしかない。絵というのも勝手な思い込みでしかない。何人かは「外国へ行ったって何も変わりはしない」と言い、オレを批判した。自分でも「その通りかもしれない」と思った。でも、行かないでそう判断するより、行って、そのことを考えようと思った。やろうと決心した。しかし、まわりを見渡すとすべての始まりはとっくの昔に終わっていた。それこそが具体的なスタートラインだった様な気がする。

- 大竹伸朗 『既にそこにあるもの』より

夜のなかを歩みとおすときに助けになるものは橋でも翼でもなく、友の足音だ、ということを、ぼくは身にしみて経験している。ぼくらは夜のさなかにいる。 ぼくは、ことばでもって闘争しようとつとめてみて、そのときにわかったのだが、夜に抗して闘争する者は、夜のもっとも深い暗黒をも動かし、夜をも発光させなくてはならない。

-『ヴァルター・ベンヤミン著作集14 書簡Ⅰ 1910ー1928』野村修訳(1975 年、晶文社)

夜、くらい、先の見えないどんづまりの中で進まなければならないということはわかるけれどもダメで、立ち止まってしまう時にお守りのように読んできた言葉たち。ベンヤミンの言うように、姿は見えなくても遠くから友の足音は聞こえている。現代日本最高の芸術家、大竹伸朗はどんづまりの日常の中でだって、ずっと新たに何かを作り始め続けてきたし、今もそうだ。そして、ブレヒトの名訳でも知られている小説家、シベリアで捕虜となって自身の戦争経験を静謐な名文で描いたマイナーポエット、長谷川四郎の言葉が大好きだ。一寸先は闇だと言うけれど、もういる場所がすでにそうなら、そうじゃない。おかげで一寸先は謎のまま、光のような気がする。

face2神宮司 博基
1989年東京生まれ、音楽の好きな青年。大学院生。 Fethi Benslama、フランスのムスリム系移民の研究。本を読み、良い音楽を掘り進め探す毎日。


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