Back to the CLASSICs vol.11

音楽、哲学、アートを探求する20 代前半を中心とするメンバーの視点から、新しい「クラシック」を紹介する連載。どんな歳月にも堪えうるどころか、年を重ねるごとにその新たな魅力を発揮し、暗い未来をいつまでも明るく照らし続けてくれる、そんな「クラシック」を共に探しませんか?

共謀罪が7月11日に施行された。一般人の日常的な会話の一つでも、捜査する側が「こいつらはこれから犯罪を実行しそうだ」と判断した場合に、実行されていなくても罪に問うことが出来る世の中になった。

この共謀罪、“Conspiracy Law” の語源を探ってみると面白いことがわかる。Con 共に/spire 息をすること。そこから「息を合わせること」、そうやって「何か企てること」→「共謀すること」という意味になったようだ。

2017 年のいま、社会はどんどん息苦しくなっている。そこにとうとう「共に息をすること」を取り締まる法律も出来た。この中で萎縮して、もう声も上げることができなくなるのだろうか?

小説家のカート・ヴォネガットは芸術家の役割とは、「炭鉱のカナリア」の様に、空気が息苦しくなってきたときに声を上げて、周りにその危険を気づかせることだと言っていた。きっとこの国の芸術、カルチャーにとって今日は、薄くなってしまった空気にその声を存分に響かせるチャンスでもあるだろう。

息について調べてみると、よく引用されるというラテン語のある言葉を見つけた。 “Dum Spiro, Spero”̶̶「息のある間は、私は希望を抱く」。確かにまだ、息はある。この息が音に変わり、意味を持てば言葉になり、旋律になれば歌になる。そこに希望はある。今回のBack to the CLASSICsはそんな「息」をテーマに、文章を集めました。

face2神宮司 博基
1989年東京生まれ、音楽の好きな青年。大学院生。 Fethi Benslama、フランスのムスリム系移民の研究。本を読み、良い音楽を掘り進め探す毎日。


マーティン・スコセッシ 『沈黙― サイレンス― 』

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( アメリカ)2 0 1 6 年

あえてこう呼ぶのなら、テロ等準備罪という法律。この法律は、テロリズムの脅威から日本を守るために、組織的な犯罪を準備した時点で取り締まることのできるものだ。犯罪を事前に防止したい管理社会・監視社会の欲望をカッコに入れても、このような法律が必要と言われてそれを支持する人たちがいる背景には、テロリズムの脅威を唱える人たちがいたことは明確に大きいだろう。

確かにテロリズムは問題だと思うが、その危険性を煽り、緊張関係を高めることは芸術の仕事ではない。ここで問題にしたいのは、映画がなぜテロリズムを扱うのか、ということである。数々の犯罪映画、戦争映画のように、テロリズム映画というジャンルが存在するわけではないが、テロリズムを扱った映画が一定数あることは確かな事実であろう。その理由は、映画が見せ物である限り、テロリズムの激しい戦闘やサスペンスを好むという性質に留まらず、大きな文化的問題だと各国の映画作家たちが考えているからではないか。

マーティン・スコセッシ監督が撮った『沈黙―サイレンス―』(2016)は、舞台は幕末日本と時代は違えども、むしろ現代的な文化的・宗教的対立を強烈に照射する作品だった。『沈黙』のなかに出てくるポルトガルから来たイエズス会の宣教師と日本にいる隠れキリシタンたちは、今で言えばテロ等準備罪の対象になったひとのようにも見える。映画はしばしば、テロリストに怯えるひとたちではなく、テロリストの主観から撮られる。この映画もいわばテロリスト側の宣教師ロドリゴの目線で進んでいく。日本の民を救いに来たロドリゴに、日本の暴力が襲いかかる。彼はこう言われる「お前らは、日本の神を理解しない。日本にはお前らの宗教はいらない」。自らの宗教的使命と隠れキリシタンたちの命を天秤にかけられて、(宣教師としてではなく)人間として耐えかねたロドリゴはついに棄教する。この映画は独善的な宣教師が異文化を理解する映画なのか?

今もなお一神教を押し付けている「西洋の暴力」が描かれていると冷静に分析することも出来るだろう。しかし、それはロドリゴの目線とともにこの映画を経験していない。「西洋化」を受け入れた現代日本に住むわたしたちは、今どちらかと言えばロドリゴの立場に生きている。さて、私としては映画の前半部で描かれていた、中央の圧政に苦しみキリスト教なしでは生きて行くことの出来なかった隠れキリシタンたちのことが忘れられない。彼らはこの映画では救われていないのではないか。彼らの救いに思いを巡らすとすれば、単なる信仰の問題に終わらず、政治や国家の問題にまで降りて考えなければならない。この映画は、徹底的な絶望を突き付けてくる。

映画はなぜ、テロリズムをテロリストの視点から描くのか。それはテロリストの心境を理解したいからでもなく、それを消費したいと思っているからでもない。テロリストの気持ちなんて分かるものじゃない。それでも見ている観客は、そこで生きる異なる背景や価値観を持った人々と世界を、映像として「ある視点」から経験する。そのようなアプローチを持ってしてはじめて、それを見ている側が一方的な立場(多くの場合は自分の立場)から相手を理解不能なものとして封じ込めずに、世界を複雑なまま受けとめようとすることが出来る。感情的に危機感を煽ってくるやつらに対する芸術家の抵抗として、このような「別の視点」を作り出す方法があることを紹介させてもらった。

p4writer:三浦 翔
1992 年生。大学院生。監督作『人間のために』が第38 回ぴあフィルムフェスティバルに入選、現在「青山シアター」にて配信中。理論研究と作品制作を往復しながら、芸術と政治の関係を組み替える方法を探究している。


カリン・ボイエ 『カロカイン』

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(冨原眞弓訳) みすず書房2 0 0 8 年

「ちょっと教えていただけますか」とわたしは言った。「「尋問された者は奇妙な歌をうたった」とありますが、これはどういう意味ですか? どこがどう「奇妙」なのですか?」

リッセンは肩をすくめた。「じっさい奇妙だった」とリッセンは応じる。「これまでに聞いたどんな歌にも似ていなかった。あいまいな歌詞でね。比喩と表象、それだけの。旋律にしても。あんな旋律で、いったいどこの国の兵士が行進できるか、実に疑わしいがね……。だが、強い印象をうけた。あれほど心を動かされたことはない」

はっきりわかるほどリッセンの声が震え、彼の感動がわたしにまで伝わりそうになる。ここに来るべきじゃなかった。〈有機的なもの〉について語ったあの女性の温かい声、その後も深い安らぎを与える蜃気楼となって耳を離れないあの声が、わたしに警告していたはずなのに。あの声がふたたび生き生きとよみがえってくる。しかも、不当で、剣呑で、悪魔的なものとして。内面の穢れが、直接でなくても間接的にも伝わるのだ……。あの見知らぬ男から、いわばリッセンの声を媒介として、男がうたうのを一度も聴いていないこのわたしに感染するとは。

「どういう歌なのか、教えてもらえませんか?」と、わたしは不安のうちに言葉をつづけた。「再現できます?」

リッセンは首をふった。

「ああ、歌があったんだ……。」 思わずそう呟き、いちど本を閉じて表紙を眺める。仄暗く天井のたかい部屋。あるいは講堂かなにかの一部だろうか。左の奥のまっ黒い長方形がわたしたちに絶望の前途をつきつけているかのようだ。このスウェーデン画家ヘレン・シャルフベックによる絵画には「扉」(1884年)という表題がついている。そうか、これは扉か。ふたたび絵を見ると、なるほど上下から光が漏れている。深淵を思わせる扉のさきにあるこの光はどのようなものだろうか。絵が描かれたちょうど30 年後には、戦争の灼熱が世界を照らすことになる。

このスウェーデンの詩人カリン・ボイエによる小説『カロカイン』(1940 年)は、「抒情と抽象」の凝らされた、美しいディストピアものだ。主人公の化学者レオ・カールは自白剤「カロカイン」を発明する。この自白剤をのめば、心の奥底で思っていること、秘密にしていることもすべて口にしてしまう。全体主義国家において、これほど便利なものもない。人びとの感情や考えまでも統制することができるのだから。もちろん共謀なんてもってのほかだ。

しかしその自白剤をめぐって、わたしたちは思いがけないところへ連れていかれることになる。心の奥底にあるあらゆる証言は、予測を超える素晴らしい美しさでわたしたちに本物の自由の姿をみせてくれる。

引用された一部は自白剤をのんだ女性の、聴いたことも、再現することもできない、「一回きり」の歌をうたったのを、主人公がつたえ聞くシーンだ。この時代に、この国で、この一節と出会えるということだけでも、この本を開く十分な理由になるだろう。なにも恐れることはない。どんなに制約され、抑圧され、強制されようとも、人間の欲望には終わりがないのだから。それは別のさまざまなかたちで必ず帰ってくるのだから。無意識の暗闇の向こうにはいつでもまだ聴いたことのない歌があり、わたしたちのいくさきを照らすのだから。心の中をのぞかれようが、裁かれようが、共謀罪が施行されようが、関係ない。誰にもその自由を奪うことはできない。いつでも歌をうたう。

 「国家が終わるところで、はじめて人間が始まる。余計などではない人間が。そこで歌が始まる。なくてはならない人間の、一回きり、かけがえのない歌が」(ニーチェ)。

face1writer:牛田悦正
1992年生。革命のために政治理論史を勉強している。共著にSEALDs『日本× 香港× 台湾 若者はあきらめない』(太田出版)など。UCD 名義でラップをしており、現在Mixtapeを製作中。乞うご期待。


ともに息をするために -BOOKS-

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『一九八四年(新訳版)』
ジョージ・オーウェルハヤカワepi 文庫 早川書房 2009年
全体主義的ディストピアを描いたとして名高い本作だが、支配者ビッグ・ブラザーに対する主人公ウィンストンの主たる反抗がジュリアという女性との逢瀬であるというのは興味深い。その本質からして自由である恋愛という営みの政治性。極めて優れたフィクションが、それ故に現実を激しく揺さぶる。
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『神聖喜劇(全5 巻)』
大西巨人 光文社文庫 2002年
人間の尊厳が踏みにじられるほどの理不尽が跋扈する軍隊内部において、主人公東堂太郎はその驚異的な記憶力を駆使し、法( ルール) と緻密な論理を武器に反抗する。凡百の物語を凌駕する人間への信と愛に貫かれた大傑作。その物々しさに怯まず手にとってみてほしい。生涯記憶に残る一冊となるはずだ。

face3writer:小林 卓哉
1992年生まれ。大学在学中、保坂和志とロラン・バルトに感銘を受け文学に強い興味を抱く。
現在都内で販売員をする傍ら執筆中。


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『パウル・ツェラン詩文集』
パウル・ツェラン 飯吉光夫訳 白水社 2012年
“もろもろの喪失のなかで、ただ「言葉」だけが、手に届くもの、身近なもの、失われていないものとして残りました。( … ) すべての出来事にもかかわらず。しかしその言葉にしても、みずからのあてどなさの中を、おそるべき沈黙の中を、死をもたらす弁舌の千もの闇の中を来なければなりませんでした。( … ) しかし言葉はこれらの出来事の中を(…) 抜けてきて、ふたたび明るい所に出ることができましたーすべての出来事に「豊かにされて」。

face4writer:三嶋 佳祐
ゆだちというバンドで音楽活動、アルバム『夜の舟は白く折りたたまれて』を全国リリース。音楽、小説、美術など様々な制作活動で試行錯誤。書物、蒐集、散歩、アナログゲーム、野球を好む。広島カープのファン。


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『シチリアでの会話』
ヴィットリーニ 鷲平京子訳 岩波文庫 2005年
1941 年、ファシズムの台頭するイタリアで書かれた、雲をつかむ様な、むしろ雲そのものの様な「抵抗小説」。検閲を逃れるために具体的な批判が書けず、だからこそ生まれた寓話的な言葉によっていつの時代のどの場所でもありうるような物語で、言葉にならない怒りを描き出している。詩によるファシズムへの抵抗。

face2神宮司 博基
1989年東京生まれ、音楽の好きな青年。大学院生。 Fethi Benslama、フランスのムスリム系移民の研究。本を読み、良い音楽を掘り進め探す毎日。


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『人生談義』
エピクテートス 岩波書店 1958年
「自由に至る唯一の道は、われわれの権内にないものを軽視することである」。自由になるための人生の教科書はこれ一冊で十分。ほとんどの悩みはここにある硬質な言葉の一撃で粉砕されるだろう。もちろん上下巻を読んだほうがいいけど、下巻に提要があるのでそこから読んでもいい。

face1writer:牛田悦正
1992年生。革命のために政治理論史を勉強している。共著にSEALDs『日本× 香港× 台湾 若者はあきらめない』(太田出版)など。UCD 名義でラップをしており、現在Mixtapeを製作中。乞うご期待。


ともに息をするために -MUSIC-

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『A Tribute to Frankie Knuckles‖Part 1』
David Morales 2014 年
https://soundcloud.com/davidmorales/david-morales-tribute-to
soundcloud が無くなってしまうと聞いて超ショックだ。ハウスミュージックを創ったフランキーナックルズが2014 年に亡くなった後、盟友デヴィッドモラレスが作ったmix が聞けなくなるなんて。とにかく愛が溢れていて聞くと幸せな気持ちになれるのに。彼への追悼mix”Every Breath”「全ての息」にも涙。

face2神宮司 博基
1989年東京生まれ、音楽の好きな青年。大学院生。 Fethi Benslama、フランスのムスリム系移民の研究。本を読み、良い音楽を掘り進め探す毎日。


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『Say Goodbye to Memory Den』
DYGL HardEnough 2017年
“ベッドルームから 騒がしい街角まで嘘やファックで 満ち溢れ過ぎている無用な空騒ぎを テレビで放送しながら警官は 俺たち全員を黙らせるそして噂が 彼ら全員を黙らせる一体全体 誰を信頼したら良いって言うんだ

だから俺たちはその節を歌う俺たちはただ その一行をもう一度歌う俺たちは激しく走るそして俺は 彼らがこう叫ぶのを聴くそれは 何処にあるんだ と”「Don’t Know Where It Is」より

face4writer:三嶋 佳祐
ゆだちというバンドで音楽活動、アルバム『夜の舟は白く折りたたまれて』を全国リリース。音楽、小説、美術など様々な制作活動で試行錯誤。書物、蒐集、散歩、アナログゲーム、野球を好む。広島カープのファン。


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『カレーライス』
遠藤賢司 1972年
「誰か」がお腹を切っちゃった時、「僕」は暢気にカレーライスを待てるだろうか?「君」が作るカレーライスを待っている事は最上の幸せなのかもしれません。
もしそれを待てなくなるような世になったとしたら、「僕」は起き上がって立ち上がる事になるのか、想像しながら聴いてみて下さい。
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『Aguas de Março』
Antonio Carlos Jobim 1974年
歌の全てが、絶望的に聞こえる時もあるし、希望に満ち溢れたように聞こえる事もあります。どんな世の中になろうと想像する事は誰にも止められないという事を思い出させてくれる名曲。一番好きな歌詞を一節を抜粋します。

“柔らかな朝日の中
銃声 丑三つ時
1 マイル やるべきこと
前身 衝突 女の子 韻
風邪 おたふく風邪
家の予定 ベッドの中の身体
立ち往生した車
ぬかるみ ぬかるみ
そして川岸が語る 三月の水”

face2writer:加藤寛之
1994 年生まれ。神奈川県葉山町出身。趣味は楽器を演奏すること。毎回テーマに沿って選曲をしていく予定。「すばらしか」というバンドでベースを弾いてます。


ともに息をするために -MOVIE-

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『アルジェの戦い』
ジッロ・ポンテコルヴォ 1966年(イタリア)
フランスの支配に対するアルジェリアの独立戦争を描いた作品。弾圧と抵抗、スパイと共謀、拷問とテロ。これらの違いはなんだろうか。ことはいつも「正義」という美名のつく側に有利だ。共謀は、テロは失敗に終わる。それでも抑圧に抗する人間の自由の息の根は止まらない。

face1writer:牛田悦正
1992年生。革命のために政治理論史を勉強している。共著にSEALDs『日本× 香港× 台湾 若者はあきらめない』(太田出版)など。UCD 名義でラップをしており、現在Mixtapeを製作中。乞うご期待。


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『人生タクシー』
ジャファール・パナヒ 2015年(イラン)
『沈黙』の例とは反対に、いま必要なのはユーモアである。検閲の厳しいイランで映画制作を禁じられたパナヒ監督は、タクシー運転手のフリをして撮影した車内の映像だけで映画を撮ってしまう。(事前打ち合わせがあったのか)代わる代わる乗り込んできた人たちがトラブルを起こし去っていく。軽快なスピードでイランの問題を車内に持ち込み、ユーモラスな人間関係が描かれる本作は、いまもっとも必要な自由についての映画である。

p4writer:三浦 翔
1992 年生。大学院生。監督作『人間のために』が第38 回ぴあフィルムフェスティバルに入選、現在「青山シアター」にて配信中。理論研究と作品制作を往復しながら、芸術と政治の関係を組み替える方法を探究している。


フリーダム・ディクショナリー
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