Back to the CLASSICs vol. 18 ディクショナリーの宇宙
ディクショナリーの宇宙。そこは言の枯葉が慎ましくまとめられたノスタルジックな秋の街路か。未知の小惑星へのカラフルな逃避行か。いずれ、辞書はひとを魅惑し、束縛する。愛の牢獄。脱獄したくて。それでもわたしはいくつか夢想する。
【血液】:からだを循環している血液がゴム鞠みたく張りきった皮膚からぷつんと弾けて流れ出して、わたしの眼にわたしのからだから流れ出たものが現実よりも赤い光をはね返すとき、それは「動物の血管内を循環する体液」 ではない。
【樹木】:夕暮れの風が口笛のような音をたてて葉を落としつつ枝を渡って、残る葉の一枚いちまいが昆虫のように蠢き、樹木がひとつの巨大な牛のように犇めくとき、それは「木本植物の総称」 ではない。
【歴史】:「いつも想うのは、自分によく似た誰かのことだ。そいつは必ずどの時代にもいて、いつまでも果たされないが、決して破られることもない、ある約束を守り続けている。そいつが生きていたころの空気がそっと僕にそよいでおり、未来のひとも同じ空気のなかで息をするだろう。僕が耳を傾ける声のなかに、今では沈黙してしまったそいつの声のこだま、あるいはこれから来るうぶごえがある。ぼくがそいつを待ち望むように、おそらく僕も、そしてあなたも、この地上に待ち望まれてきたのだ」と、誰かが言うとき、それは「過去の人間生活に起こった事象の変遷・発展の経過」 ではない。
さて、こうしていささか辞書の束縛の網目から漏れ出ようとする言葉たちを並べてみても、やはりそれらはすでに辞書のなかに書かれている。ふと、ため息をついて、それでもわたしたちはそこから自由になろうと夢みる権利をふたたび手にするために、ずしりとした積み重ねの、透けて見えるほど薄いページをめくるあの匂いの手触りのほうへ、今宵はすこし旅をしてみたい。
辞をひく愉しみ
【辞書編纂者】lexicographer「辞書を作る者。退屈な仕事をこつこつ続ける人畜無害の存在で、言葉の起源をたどったり、その意味を細々と書き綴ることに浮き身をやつす」
-サミュエル・ジョンソン
” ジョンソン博士は間違っている。辞書編纂家は「退屈な仕事をこつこつと続ける人畜無害の存在」などではない。( … ) あらゆる点でコミュニケーションの要である言語を解釈し、裁定を下す立場の辞書編纂家は、人畜無害どころかむしろ神に近い存在なのだ。神は言い過ぎだとしても、司祭であるのは間違いない。社会は彼に、意識してであれ無意識にであれ、言葉の真理についてのお告げを伝える役をゆだねている。”
-ジョナサン・グリーン『辞書の世界史』
反訓とは、一つの文字が矛盾した意の訓を持つことであるが、例えば「乱( 旧字: 亂)」という字がそうで、「みだれる」という訓と「おさめる」という訓を持つ。
白川静によれば、「乱(亂)」が元から矛盾した意味を持っていたわけではなく、はじめ、乱( 亂) は「おさめる」という意だけを持っていた。そもそもは左側のの字が「みだれる」の意であり、おさめる意を持つ乙の字が加わって、亂は「おさめる」の意であった。それが「」と「亂」の字の混同により次第にどちらの意も持つようになった、ということのようだ。
しかし、どうだろう。おさめると言うからにはみだれているわけで、どこに立って視ているかの違い、パースペクティブの違いのような気もしてくる。反訓というものも、予め言葉が持っている二項関係の揺らぎが顕れた結果の一つであるとも言えないだろうか。
乱( 亂) という字の左側の は、糸が絡まっているのを手で解いている字であるという。となれば既に、この字のイメージは「みだれる」と「おさめる」を孕んでいるように思える。
ところで、「辞」という字も、実は「乱」ととても似た字である。
【辞】
ジ
とく・ことば・ことわる
「会意は辭に作り、 と辛とに従う。」(『字統』)この辛は乙の字と似ていて、長い針器のことで、乱と辞はもと同じ意であると白川学説は言う。そこから辞は神に対して弁解する意の ( + 司)と混同されて、コトバの意を持ち、のちには裁判用語ともなり、異議抗弁のあることをいうようにもなり、辞命、言辞の意も生まれたという。
藤堂明保の『漢字語源辞典』にはこうある。
辭( 辞) diəg→(jiei)→ziei
「訟なり。+ 辛の会意。罪を理( おさ) むというがごときなり」
藤堂はこの字を辛+ 台声(台と同じ音から派生)の形声文字とみる。
” 右側の辛は、刺したり刻んだりする古代の刃物であり、辜( つみ、罪) の下部と同じく、監獄や裁判に関することを表す記号に用いられる。”” 辞とは、言辞に作為修飾を加えて、訴訟を調停することを意味する。転じて弁辞・修辞の辞もまた、人間が巧みに作為を加えたコトバを意味する。(…)”
” 台声のコトバには、人工を加えて本然の姿を変え、好ましい姿にまとめ上げるという意味を表すものが多い。(…)”(『漢字語源辞典』)
台、の基本義は「道具で人工を加える」であり、藤堂はその音との関連から辞という字をこう読み解いている。
これらの漢字に限らず、白川、藤堂の二人の説はよく似ているところも、はっきりと対立しているところもある。この二人は、漢字を巡って互いの論を闘わせてきた二人でもある。語源とはその解釈が一つしかない固定的なものではなく、辞書には編纂者の解釈や読み方の個性があらわれる。まさに、辞書編纂者とは、「辞」という字が持つ意味の如く調停をするものであり、ジョナサン・グリーンの言葉を借りれば司祭のようなものである。
辞というものは、もつれたり、解こうとしたり、みだれたり、人と人の仲をおさめるために用いられたり、意味を定めようとする一方で、尚、そこから漏れ出してしまう、逃れ出ていこうとする何かを内包している。だから、この世に存在するすべての言葉について、完全な記述を果たした辞書などは存在しない。
今では、多くの人は辞書というものを、どこか無味乾燥な学習のための参考書のように考えているかもしれない。
しかし、よい辞書は、一級品の文学作品と同じように、読みものとしても面白いもので、言葉の歴史的な層や、その揺れ動き、時間をかけて多くの人々が交わしてきた熱いもの、言葉の体温とでも呼ぶべき何かをそこに宿している。
私たちがつかっているこの言葉は、いちばん始めの人がつかっていたであろうその言葉から確かに繋がっていると感じられること。そして私たちが日々声にするそれも、遥か未来の誰かの声に繋がっていると信じられること。それは言葉をつかい、言葉を住処とし生きる私たち人間の愉しみであると同時に、忘れてはならないことでもある。
ゆだちというバンドで音楽活動、アルバム『夜の舟は白く折りたたまれて』を全国リリース。音楽、小説、美術など様々な制作活動で試行錯誤。書物、蒐集、散歩、アナログゲーム、野球を好む。広島カープのファン。
未だ会わぬものに宛て
一日に何度もわたしがその証人になったり演出家になったりしているのに、どうもいつまでも慣れっこになれない奇跡がある。読書という奇跡だ。インキがたっぷり塗りたくられ、赤、緑、青、はたまたただの墨色……と無限にも思えるヴァリエーションで彩られた紙の束が手許に届き、ふと目を落としてみると、なにやら表現しがたいものが生まれてくる。人気のない河原の、そこにたたずみ夕涼みをする老人の、懐の薄ぼけたカーキ色の首許がよれたシャツに留まる一匹の天道虫。わたしのいぎたなさなどお構いもせず、耳許をかしましくし、息が詰まるほどに滑稽なエピソードを語る遠方のフランス人、旧友。一匹の昆虫、一人の友人はきまっていずれまたどこかへと旅立っていくのだが、鮮やかなかれらが黒ずんだ紙からしかやってこないということにわたしはしばしば震えてしまうのだ。
出版などという野暮な仕事をしていると、そうした奇跡の瞬間に否応なく出くわすことになる。わたしにとって尊敬できる編集者はほんの数人しかいないが、そのうちの一人が唱える念仏をわたしはここで真に受けようと思う。一冊の本にはいつでもふたり作者がいるんや。いいか、本を書いた人がいる。そして本を読む人がいる。本はな、誰かに読まれなければほんとうのいみで存在しているとはいえないんよ。彼は本当に伝えたいことがあるときは似非臭い関西弁をよく使う。わたしはその語り口を好んでいなかった、加えて、大学時代からさんざんお説教をされてきたような陳腐にも思えるようなことを堂々と強弁する彼の物言いに若干の苛立ちがあった。
阿呆な若造の生意気な言い草かもしれないが、やっとこの意味が理解できたような気がする。何度か、ほんの何度かではあるが、読まれない本とも出くわすことがあった。司教座の奥底に眠っているわけでもなく、地中の奥底に埋められているわけでもなく、あるいは焚書に遭難し散逸しているわけでもなく、あなたの散歩途中にある書店に置かれているにもかかわらず。そんな本はまるで、風の吹くままに狂ったようにあおられ、未知のところへと飛ばされている蒲公英の綿帽子にも例えられる何かで、いつかどこかで大地の隙間に潜り込み、根を張り、また次の種をいっぱいに蓄えて、自分自身になることを待ち望んでいるかのようだった。わたしはその種子たちを何度か見守った。というよりも、見守ることしかできないのだから、たとえ花が開いたとしてもそれは誰の力でもないのだ。それはやはり奇跡としか呼べないのだろう。そしてわたしはというと、奇跡を信じ待つことしかできないただの凡人である。
だが、普通の読書が奇跡と言うのなら、辞書を引くことはいったい何といえばいいのだろう。辞書は通読には適さないが、読書と同じく蒲公英の綿毛、とわたしは考える。わたし自身が持っている辞書にはおそらくいままで一度も開かれていない頁がある。その頁はこれからも開かれる保証など全くない。ただそこにはわたしやあなたを待っている文言が、黒ずみがあり、どこかの大地のくぼみを探して飛び続けている。それはあてもない浮遊だ。言ってしまえば、わたしにその黒ずみが根を張るという保証もない。
現在の辞書、正確に言うと百科事典の祖とされる『百科全書』を作り上げたドニ・ディドロはこう言う。「『百科全書』の目的は、地上に散在している知識を集結することである。知識の一般的体系を同時代の人間に提示するとともに、未来の人間にもこれを伝達することである。このようにして、過ぎ去った時代の業績が、きたるべき時代に無用のものとならないようにしたい。われわれの子孫が、より多くの知識を獲得すると同時に、より有徳でより幸福になるようにし、またわれわれ自身が人類にふさわしいことをしおえたのちに死んでいくようにしたい」と。
かれもまた読書の奇跡に取りつかれた者なのだろう。いつやってくるかもわからないわれわれの子孫に向けて、狂ってしまったかのようにひたすら種を飛ばし続けたのだ。それがいつかどこかにたどり着き、ほんとうに存在するようになるために。
今も何も変わらない。辞書はいつもわたしのことを、そしてあなたのことを待っている。自分の姿かたちを手に入れるために。それもひとつの奇跡だ、と私は考えている。だからまずは飛び続けるそれらを受け止めようか。われわれを待っている奇妙な奇跡を。
1993 年生。埼玉県出身。現在は出版社に勤務。大学時代にドグマ人類学に魅せられる。現在も働きながら本に触れることで、気力を保ちながらなんとか生きている。
「未来を明るく照らす知恵の辞書」に関する覚え書き
”freepaper dictionary”-「未来を明るく照らす知恵の辞書」。
その辞書は音楽に耳を傾けることを愛する人はきっとすぐに見つけ出せる。音楽に、映画に、本に、芸術に心を救われたことがある人はいつかはきっと読んでる。その時に出会った知恵は、かつての未来だった今を明るく照らし出してくれている。だから縒れてしまい、もしかしたらどこか破れてしまっていながらも、あの時に手に入れたdictionary は静かに光を宿しながら本棚に、それともレコード棚のどこかできっと見つけ出せる。この辞書は代金を必要としないで手に入る。それとは別の美しい価値を知っている人が編纂しているから、贈り物のように置かれどこかで開かれるのを待っている。
辞書というものがなかった時代のことを考えてみる。当たり前にあると思える「辞書を引く」という言葉も存在せず、シェイクスピアでさえ暗中模索しながら言葉の綴りや定義を曖昧なまま書いていた時代のこと。その時そこに生きる人々の言葉を数限りなく集め出し、意味を定義して「辞書」を作るという途方もない骨折れ仕事は、実は「共通の言葉」の礎を創り上げることに等しかった。
どんな「国」の言語も、使われた言葉を地道に収集してそこに定義を与えて辞書を作り上げた辞書編纂者がいなければなかった。「英語」と呼ばれている言葉の信頼出来る辞書が始めて出たのがサミュエル・ジョンソンによる4万3000語の1755年のもの、そして単語の綴り、意味、さらには語源、意味の変遷を辿ることのできる収録語数約42万の決定的な辞書が出来たのが1928年の『オックスフォード英語辞典(OED)』だ。今でも、英語に携わる人はこの辞書を丹念に引くことが求められているらしい、と英詩の授業を聞きかじった時に知った。70年もの歳月をかけて完成した狂気じみたその辞書を作ったのは仙人のようなジェームス・マレーと、数人の編集者たち、そして言葉の古い用例を募った無数のボランティアだ。日々過去に書かれた文献が届く仕事場で、朝も夜も辞書を編み上げ、そんな仕事によって過去の言葉の意味、その由来を知ることが可能にされていった。
その一世紀のちの日本の大学で、軽い気持ちで取った英詩の授業で訓練と称されて私はその辞書をひたすら引かさせて頂いたのだった。詩に出てくる単語を意味だけでなく語源を辿っていく、勿論ネット版で引くのだが、それでも大変で、用例の量が半端なく、詩を読むのも難しくて大変なのにもう泣きたい気持ちだった。しかしこれを数人の編集者たちが手で作りあげたという事実に、恐ろしいような畏敬の念を抱いたのだった。
『舟を編む』という辞書を作る人々を描いた日本の小説が少し前にあった。そこにあるこんな言葉は、辞書という物の本質を伝えている気がした。辞書というものは「暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める」もの、だから「もし辞書がなかったら、茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」それ故に辞書を作ろうとする人は「海を渡るにふさわしい舟を編む」。そんな情熱には尊敬しかない。 英語の海に溺れて水をめちゃ飲んでしまいながらも、過去から手渡された辞書を手がかりに読んだ詩に、こんなものがあった。
“生に満ち溢れて。今、引き締まり、目に見ることの出来る私は、40 年を生きて、合衆国が出来て83 年を経た時にいる。これから一世紀か、それとも何世紀も時が流れた後の時の、君を、まだ生まれていない君のことを、この言葉たちは探し求めている。
君がこれを読む時には、かつて見えていた私は、もう目には見えなくなっている。今度は君だ。引き締まり、目に見ることの出来る君、私の詩を現実のものとして、私を探し求めてくれるのは。こんなことを空想するよ、もしも私が君のそばにいることが出来て、仲間になることが出来たらどんなに幸せだろう、と。そう思って良い。君のそばに、私が一緒にいるかのように。(信じすぎずに、でも、私はいま君と共にいる。)” Walt Whitman -“ Full of Life Now”
私が今を生きているこの時に、過去の誰かから生み出された無数の光を集め出し、まだ生まれていない誰か、出会わない君を想うこと。未来へと光を届けて、その君がもういない私の言葉をいつか現実にして、きっと私を想ってくれるということ。
辞書のことを想う時、この詩のことを思い出す。過ぎ去った時に生み出されたものたちを今この時に集め、救い出して編んで、未来の読者のために辞書は作られる。この「未来を明るく照らす知恵の辞書」もそう、今はまだたくさんの人には知られていない素晴らしい知恵の豊穣な意味を伝えて、今この時代に生きる心細い誰かに別の光を届け見えてなかった道を照らし出す。未だ来ていない未来を迎えさせるために。ここに書くdictionary 寄稿者の端くれで、読者も、そんな光を受け取って来た一人なのだった。
1989 年東京生まれ、音楽の好きな青年。大学院生。F e t h i B e n s l a m a 、フランスのムスリム系移民の研究。本を読み、良い音楽を掘り進め探す毎日。
オススメの辞書
『百科全書』
ディドロ、ダランベール 編 桑原武夫 訳
岩波書店1955 年
これほどまでに後世の者たちを惹きつけ、魅惑し続けた本があるだろうか。地球上にあるすべての知識はここに詰め込まれた。かのように誰もが思ったが、ディドロたちの遺志を受け継いだ者たちも含め、かれらが本当に見せてくれたのは、世界というわれわれの前に開かれた一冊の背表紙に広がっている光景かもしれない。いまはそれを、名づけえぬものとでも呼んでおこう。(増田)
『事典 世界音楽の本』
徳丸吉彦、高橋悠治、北中正和 、渡辺裕 編
岩波書店2007 年
大友良英さんが昔ブログで、あなたが音楽を本気でやりたいと思っている若者なら、この金額は安すぎる、内容が一生ものであると書いていて音楽をやっていないのに無理して買って、それから折に触れて開き読んでいる。クラシックから民族音楽、ノイズまで拡がり、音楽とは何か、世界史、社会との関わりについて知れて相当に面白い。編集委員の高橋悠治さんの文章が凄い。類書が見当たらない、力の込められた本。(神宮司)
『Genius: Song Lyrics & More』
Genius Media Group(アプリケーション版)
英語の音楽の詩の世界に接近するための最短距離。これほどに英詞の解釈や分析充実していて、しかもタダなんて…。ライナーノーツや翻訳で読むだけでは決してわからない多様な意味をここで知ることができる。それにしてもなんという豊かな文化だろう。(牛田)
『The Oxford English Dictionary』
James Augustus Henry Murray ed.Oxford University Press.
first edition 1928
70 年もの歳月をかけて生み出された12 冊、収録語数約42 万語の最強の英語辞典。全ての英語を網羅しようとする知への情熱に打ちのめされる。完成のために驚くべきドラマがあったのは『博士と狂人』という本に詳しい。初めは英語の貴重な用例文献を無数に送ってくる一人のボランティアで、徐々に欠かせない共同編集者となった顔を見せない「狂人」と博士の物語にこの辞書の奇跡を思う。(神宮司)
『精選版 日本国語大辞典』
物書堂(アプリケーション版)
おそらく日本でもっとも質の高い日本語辞典のアプリバージョン。いつでもどこでも引けるからすばらしい。一度つかえば、もうこれなしには読書できなくなる。実はちゃんとわかっていない言葉の意味を再確認できる。語の派生や古い用例も充実している。とにかくこれは日本語の全ての読み手にとって「買い」です。(牛田)
『レトリック辞典』
佐藤信夫、佐々木健一、松尾大
大修館書店2006 年
省略、反復、比喩、誇張など…全体像が見えない故に神秘化されがちなレトリック(言葉を巧みに扱う技法)を46 の型・技法へ体型的に分類した辞典。文豪達の日本語が豊富に分析されていて、とにかく具体的に日本語のレトリックを西洋のレトリック論と架橋しながら調べられることで、あらゆる日本語の使い手たちに確かな技術を与えてくれる。名著『レトリック感覚』の佐藤信夫が残した計画を佐々木健一と松尾大が引き継ぎ完成させた。(三浦)
『ロベール仏和大辞典』
小学館ロベール仏和大辞典編集委員会 編
小学館1988 年
伝統工芸と括られるべき逸品のひとつ。数多あるそれらの技巧の中でもわれわれの舌を形作り、われわれの世界を鋳ってきたその洗練たるや。その営みは終わらず、現在もわれわれに息づき明かす暇を与えない。人間を人間たらしめている、とから聞こゆる音のみちびき。月明りや蛍の残り火だけでは暗すぎて進めないとき、この一冊とともに。(増田)
選んだ人
牛田 悦正
1992生。Rapper。ヒップホップバンド「Bullsxxt」のMC。1st アルバム『BULLSXXT』好評発売中。
三浦 翔
1992 年生。大学院生。監督作『人間のために』が第38 回ぴあフィルムフェスティバルに入選。理論研究と作品制作を往復しながら、芸術と政治の関係を組み替える方法を探究している。
増田 侑真 / 神宮司 博 基