Back to the CLASSICs vol.03 革命について。by SEALDs

text:牛田悦正/神宮司博基 photo:yui hasegawa model:伊勢桃李 design:内山望 

日本の最南端、波照間島にて。

「俺も昔は与那国島に行って夕日を見たりしたよ、綺麗だなって。でもな、この歳になったら夕日なんてどこで見ても一緒、変わりゃしないのさ」。
その日は生憎の曇り空で夕日を見ることはできなかった。日が暮れて、僕は民家のキッチンをそのままお店にしている居酒屋で、豚足の入ったおでん、鯛の唐揚げ、ヘチマの炒め物を啄いていた。すると、お店に入った時にはぐっすり寝込んでいた呑んだくれのおじさんがムクッと起き上がり政治の話をはじめた。60歳くらいだろうか。「政治は絶対変わらない。若いうちは希望を持つんだよ。なあお嬢ちゃん。この歳になれば現実がわかる。変えようなんてのは太平洋にしょんべんするのと同じなんだ。仕方がないじゃないか。俺は選挙には行かない。だからこそ、国が何をしようと文句は言わないよ」。自分に言い聞かせるように皮肉を吐くその呑んだくれは、痛々しく同じ言葉を繰り返し、笑っていてもどこか弱りきっていて、焦慮を隠しているようだった。相席の40代のおじさんは終始そのニヒリストに反抗し、「いや希望はある。そうだよな?みんな安倍さんの政治をいいと思ってないよな?」と、僕らに問いかけていた。

ここは有人島では最も南にある波照間島。20代の僕はいま、日本の最南端で、革命について書きあぐねている。正直に言って、革命に興味がない。僕は、革命は嘘だと思っている。革命はふつう、劇的な変革によって社会が大きく変わることだとイメージされる。しかし、そんな風にして一回で変わることなんてあるはずがない。たった一回の革命で全てが変わるなんて空想にすぎない。

一方で、呑んだくれたおじさんが言うような「なにも変わらない」というのも嘘だ。社会はつねにすでに変わっている。この社会はいま、悪いほうへと溶け落ちている。この社会は急激に変わらなくても、ゆっくりと確実に変わっていく。注意しなければ気づかない、目には見えないスピードで。本当の革命とは、気づくことではないか。変革の可能性は良かれ悪しかれ、すでにつねにここにあるということに。

僕らの世代は絶望の中に生まれた。この社会にはなんの希望もない、もうなにも変わらない、全ては同じことだ、だからなにもしないのが一番だと、呑んだくれたおじさんのような人に、嫌というほど聞かされてきた。だけど、あのおじさんは本当に絶望しているのだろうか。絶望したフリをして、なにもしないことの言い訳をしているだけじゃないのか。ただ、失敗することを恐れているだけなんじゃないか。

僕はあのおじさんよりももっと真剣に絶望しているという自信がある。僕は絶望することに絶望している。もううんざりだ。できないことを「できない」と言い続けても時間の無駄じゃないか。やれること、やらなきゃいけないことは、まだまだたくさんある。諦めることを諦めたのだ。

いくら嘆いても、世界は終わらず続いていくし、変わっていくし、そこで人は暮らしていく。どこで見ても同じような夕日も、実はそのとき、その場所でしか見ることのできない夕日であり、見ようと試みなければ見ることができない。同じように、どんなありふれた些細なことでも、それはその人にしかできないことだし、少しずつでもやらなければ絶対に変わらない。やれることをやろう。見方を変えれば、それはどこで見ても美しいものかもしれないから。Always do the right thing. It’s a beautiful thing. 牛田悦正

Tell Me What ”Revolution” Looks like??

Revolution Will Not Be Televised. 「革命はテレビには映らない。」と、1970年代のニューヨークで、黒人差別に反対する運動が決してテレビには映されないことに対する怒りを込めて、ある黒人の詩人音楽家は歌った。

21世紀の今、彼が歌ったような「革命」は、もしかしたらSNSには映っているかもしれない。チュニジアの「ジャスミン革命」から始まる「アラブの春」、香港の「雨傘革命」、台湾の「ひまわり学生運動」、ニューヨークの「オキュパイ・ウォールストリート」、ファーガソンでの“Black Lives Matter”、そして今、ここ日本。至る所で声は上がり、それが拡散され、人々はまた路上に集う。

自分は今起きていることが 「革命」なのか、正直なところよくわからない。SEALDsに関わるようになって、デモの場にいるとき上の世代の人たちから「革命」について聞かされることが時々あって、自分はそれをしたいのか?と思うことがよくあった。東京で、2014年くらいからデモに参加するようになった一人として、「革命」とは一体何なのか少しだけでも考えてみたい。

革命の元の訳語であるRevolutionについて、その語源を辿ってみると少し意外なことがわかる。

Revolutionはラテン語Revolve(re)から派生した語で、その語の作り方は、「再び」や「後ろに」などを意味するReに、Volvereという、「回ること」という意味の語がくっついたものらしい。(鉄砲のリボルバーと同じイメージだ。)

つまり、元々は「回転すること」を意味していて、また「(周回して)再び元の点に戻ること」などを意味していたようだ。1542年に『天体の回転について』という本を残し、天動説から地動説を唱えたコペルニクスは、 その「回転」という語にRevolutionという語を用いている。(ちなみにその後、物事の見方が180度変わってしまうことを、コペルニクス的転回Copernican Revolutionと言うようになる。)

こうした「回転」、「再び戻ること」の意味が、社会的なことに用いられるようになったのは、1688年のイギリスの名誉革命からとも、一般化したのはフランス革命からとも言われている。いずれにせよ、一般的にはそれまでの社会体制が急激に根本的に「ひっくり返ること」が主に「革命」と呼ばれるようになっているようだ。

きっと、今の路上で起きていることは、暴力も辞さない形で今すぐに社会の体制を「ひっくり返すこと」としての「革命」ではない。自分の意思から自然発生的に集まった個人が、非暴力の声を上げて、「ちゃんとあるべき姿を取れ」と言うこと、「革命」を目指すより、今ある日常を何とかマシなものにしようとするために、声を上げることだと思う。憲法にあるようなその理念に還れと、「再び元に戻れ」と、主張することだ。

2014年に「安易な革命でもなく、ニヒリズムでもなく、私たちは主張します。」とSEALDsの前の団体のSASPLは言っていた。反体制を気取り、権力などなくてもいいといった態度でもなく、何をやっても無駄だからという態度にも陥らず、主張することを選ぶ。その姿勢は、きっと今の運動へと繋がっている。

その年の12月9、10日の首相官邸前デモの後にSASPLは解散した。そのことに少し支えを失った気がしていたが、その5日後に発表されたD’Angeloのアルバムに、こんな言葉が書いてあって勇気付けられたことを覚えている。黒い救世主=ブラック・メサイアと名付けられたタイトルについて書かれた言葉だ。

“俺にとって、このタイトルは俺たちみんなを意味しているんだ。/それは「ファーガソン」や、 「エジプト」、「オキュパイ・ウォールストリート」など、これ以上我慢がしがたい状況に対して変化を求めるべく決起している、全ての場所の全ての人々を指している。1人のカリスマ性のあるリーダーを称賛するのではなく、大勢のそういった人々を讃えるということなんだ。/ブラック・メサイアは1人の人を示すものではない。それはまとめると、俺たちみんながリーダーだという感覚を示すものなんだ。”

「これ以上我慢がしがたい状況に対して変化を求めるべく決起している、全ての場所の全ての人々」。その一人ひとりが無名の「救世主」になる。きっと、すぐに物事を変えることは出来ない。それでも何も変わらないと嘯いているだけでは、もう本当に何も変わらない。そうして、諦めることを諦めた一人ひとりがまた声を上げ始める。やれないことはやれないけど、出来ることは出来る。ただそれをやるだけ。いま起きていることが「革命」の名で呼ばれるかどうかは、きっと次の世代が決める。
神宮司博基

参考
Gil Scott Heron-“The Revolution will not be Televised” from the album “Pieces of a Man”.
D’Angelo-”Black Messiah”.
Oxford English Dictionary
http://www.oed.com/
Online Etymology Dictionary
http://www.etymonline.com/

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”BACK TO THE CLASSICs” について
ヒップホップで、時代に左右されることなくずっと聴き続けられる作品をクラシックと言うように、「古典」に限らず、本、音楽、映画、数多ある普遍的なクラシックを探求していく連載です。

フリーダム・ディクショナリー
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