ヴィンセント博士の ロマンティック物理学
第5回 ロマンティックな時間論
前回のコラムで、「時間とは、音楽のことである。」という僕なりの時間論について書いたが、「もう少し詳しく書いて欲しい」という声をいただいたので、あらためて時間について書こう。相対性理論でも量子論でもない、あくまでもロマンティック物理学としての時間論。
時間とは何なのか?
相対性理論では、「時間とは観測者によって相対的に変化する」という立場をとり、量子論では「時間というものは脳の幻想で、過去・現在・未来が同時に存在しており、我々は座標移動をしているにすぎない」といった考え方がある。どちらにしても、そもそも時間とは何なのか?という命題に対して理論的に解釈しようとしているのだが、決着は未だついていないんだよね…。
僕たちニンゲンは、時間の中で生きている(と思っている。)毎日時間に追われ、時間を基準に一日の行動も決めている。残業だなんだと働く時間に対価を求める。カラオケもキャバクラも時間制。相対性理論的には、かわいいコと一緒の時間はあっという間に進み、支払った分の時間の終わりはすぐにやってくる。そして「もっとお話したいです♥」なんて言われて、まんまと追加料金を払うそこのアナタのように。時間は当たり前に在るものだとして、時計が示す数値を基準に生きている。でもよーく考えて欲しい。僕らは生きて、動いているがゆえに、過去を思い出したり未来を想像したりしているけども、それは記憶と予感という観念でしかないように思える。
僕たちは常に「現在」にしかいられないし、「未来」という一方向にしか進む事ができない。この宇宙をYoutubeのように好きな時に再生したり、巻き戻して見ることはできないのだ。だが、時間が在るとするならば何処かにその始まりとなる瞬間があったはずだ。まずはその大きな疑問から考えてみよう。
「時間のはじまりは何処か?」言い換えると、「誰がその音楽を演奏し出したのか?」という問いは「宇宙のはじまりは何処から?」にとても似ている疑問である。綾瀬はるかの言う「あなたの風邪は何処から?」にも少し似ているかもしれない。僕の風邪は大体鼻から…なんだけども、宇宙のはじまりはよく「無からはじまった」と言われる。そうなると、当然「じゃあその前は何だったの?」という新たな疑問が生まれていくのだが、この答えはすごく簡単。
この宇宙をひとつの音楽だとして、誰かがギターのイントロを弾き出しただけだ。その前は無音。誰も歌おうなんてしていなかっただけなんだ。iPhone で言うと、電源OFFの状態。電源をONにして起動したから、この宇宙はじまったんだ。とにかく、それでいい。
では、次に二つ目の疑問。「時間はなぜ一方向にしか進まないのか?」…みんながたまに考える、「タイムマシーンで過去には戻れないのか?」という問題でもある。でも過去に戻るには色々と矛盾が起きるから、戻れないはずだ!とされていたんだ。「親殺しのパラドックス」は聞いたことあるだろうか?もし過去に戻れるとして、自分を生む前の母親を殺したら自分が生まれなくなる。そうなると生まれるはずの無い自分が、何で母親を殺せるのか?という矛盾が起きるっていうヤツ。映画『バック・トゥー・ザ・フューチャー』で、両親の恋を邪魔してしまったマーティが消えかかったアレ。その矛盾を解消する理論として生まれたのが「多世界解釈」だね。過去に遡って、事実を変えてもまた別の結果を持った宇宙が生まれるという、いわゆるパラレルワールドの話だ。
パラレルワールドの話は今度じっくりするとして…そこから、過去も現在も未来も、複数の宇宙が同時に存在しているっていう理論が出てきたんだ。勿論、これは理論なので正確に証明出来ているわけではない。ただ、そう考えれば辻褄が合う、という一つの視点なんだ。過去・現在・未来…あらゆる時間が“座標”として同時に存在していて、あらゆるパターンの宇宙が存在する…。このことを僕なりに考えたことがあるので、少し説明しておきたい。
過去が未来で、未来が過去で。
僕らが目で視えている世界は、可視光線という極めて狭い範囲だということを覚えているかな?読んで字の如く、目で視ることのできる光だけを捉えて、僕たちは世界を認識あるいは観測している。だからこそ、解像度を持ったものしか存在しないと信じている。過去や未来は、現在と違って直接視ることは出来ない。過去は写真やデータで再現された「記録」としてしか視ることは出来ない…はず。
でもここで一つ、頭の中でイメージして欲しい。僕らの見えている現実が可視光線という光の波だということは、速度を持っているということだ。光は、当たり前だけど光速(秒速30万km)で進んでいて、一秒間に地球を七週半も進み、一年で約9兆4千600億kmも旅をする。夜空に視えている星の光は、何万・何百光年も前の光が、そうやって光速で飛んできて、僕たちの目とぶつかったから視えている。今そこに在るように視えていても、すでに爆発して無くなった星もある。リアルタイムではなく、夜空はすでにYoutubeみたいなもんなんだ。僕らは当たり前に、すでにあらゆるパターンの過去の記録を現実として視ることが出来ている。星の過去が、僕らの未来になっているんだ。
今度は、星と僕たちの視点を逆にしてみよう。仮に、地球から825光年離れた星に宇宙人がいたとしよう。彼らはものすごいテクノロジーを持っていて、こんな遠く離れた地球すらも捉える高解像度の望遠鏡があるとする。そして、かつてのあなたのような思春期の少年がその望遠鏡をゲットしたら…?例えば、水着の女性たちで溢れる夏のビーチでも覗きはじめることだろう。パリピが多いと噂の湘南あたりでも覗いてみるとする。期待に胸をふくらませ鼻息荒く覗いた望遠鏡の先には…!?水着の美女なんかいないのである。そこには、きっといい国つくろうと頑張る源頼朝が視えているかもしれない。2017年(今)― 815光年 = 1192年のビジョンが“今”視えるってことだね。その星の宇宙人にとっては、それが地球の「現在」ということになる。そしてきっと「すげー!文明が超ローテク!ダサい!」と驚き、笑うかもしれない。…そんな事が起きるんだよ。
その星よりもう少し地球に近い位置から視れば、坂本龍馬暗殺の真犯人が視えるかもしれないし、もっと遠いと卑弥呼が美人かブスかも、観測者の「現在」として視えることになる。つまり、遠い宇宙の何処かでは、僕らの「過去」はまだ「現在」として存在しているし、今「現在」の僕らがすでに彼らにとっては「未来」でもある。無くなったはずの過去は、解像度を持った実体として、何処かのポイントでは“やがて訪れる未来”として、光速で存在し続けているんだよ。そういう視点で考えれば、過去・現在・未来というのは全てこの宇宙に同時に存在していて、観測者の座標移動でしかないというのは納得できるでしょ?。現に全然違う時間に存在している星を視ているんだ。
だから時間は存在しない、と言うのはニンゲンの考える「一方向にしか進まない時間」のことであって、本当は全ての時間が宇宙には在るはずなんだ。ただ、僕らが視えている「現在」が、常に光速で遠ざかっている…あるいは、僕ら自身が光速で座標移動をしている…だから「現在」しか視る事は出来ないし、時間は一方向にしか流れていないように感じるのかもしれない。
一方向だけど、全部在る。
そんなふうに僕らの「現在」を不可逆的に動かすことで、「時間」を生み出している根本的な動的エネルギーの正体は何なのだろうか?それこそが「音楽」なんじゃないか、と僕は思うんだ。もっと細かく言うと、宇宙はリズムやメロディを奏でているからこそ時間が生まれた、って事なんだけど。
原始の音楽は、おそらく歌とはおおよそ言い難い叫び声のようなものであっただろうし、木の枝で何かを叩いてリズムを発見したに違いない。そうやって始まったものがいつしか呪術的な意味合いを獲得し、民族伝承の宗教音楽になり、娯楽・文化へと発展してきた。そして、ジェームス・ブラウンがFUNKを生み出した瞬間から、また新たな音楽が生まれる事になる。FUNKが無かったら恐らくHIP-HOPだって生まれていないだろう。そして、次々と新たな音楽が派生していく。原始の人々やJB が鳴らした音の波は、今も何処かの宇宙で聴くことは出来るはずだし、その続きを今のアーティストたちがプレイしているのだ。始まりは、たった一つの音だった。その一つの音が生まれた瞬間から、今日までも、世界からはずーっと音楽が止まっていない。しかし、ここで重要なのはHIP-HOPがFUNKより先に生まれる事は無かったという事だ。全ての時間は、音楽の様に一度放たれると、(音波のように)不可逆的に広がって行き、戻っては来れないが、宇宙のどこかでずっと存在し続けている…。過去(JB)も、現在(Suchmos)も、未来(?)も、全て“Stay Tune”なの かもしれない。
ちなみに、日本語の“たまゆら”という言葉は“玉響”と書く。ほんの一瞬、という意味だが、これは鈴の玉がぶつかって小さな音が鳴っている、ほんの束の間の時間を意味している。時間の捉え方として実に美しく、エモいではないか。たまゆらの人生、いいグルーヴで行こうぜ!