ヴィンセント博士の ロマンティック物理学

Writting / ヴィンセント博士 @VINCENT_R_P (Twitter)
これはいわゆるアインシュタイン以降の物理学ではない。というかそんなハイレベルな知識は必要ない。僕らはこの世界を五感によって認識あるいは観測していて、特に目に見えるものばかりを前提とした社会で、今日もウダウダ生きている。しかし、この世界や宇宙には目に見えないもののほうが圧倒的に多いのだ。重力だって、音楽だって、感情だってそうだろ?偉い学者の理論や数式はわからなくてもいい。ただ「目には見えないかそけきものたちが、確かに在る」という視点で、この現実を甘美に観測すること。-それが、「ロマンティック物理学」である。

Vol:07 ヒモとエモ part2

前回、VRやARなどのテクノロジーが進化していけば、目に視えるものは実像なのか虚像(ホログラム)なのかが曖昧になり、結局はそれを観測している人間の感情だけが唯一の“リアル”になる世界がやってくるのではないか?もしそうならば、はじめから感情だけがリアルで、今見えている世界もそもそも実在では無いのではないだろうか?ということを書いた後…原因不明の顔面麻痺になってしまい、顔半分に全く感情を表示出来なくなってしまったヴィンちゃんです。笑いたくても動かない。口笛を吹きたくても、ジャック・ニコルソンの物真似をしようとしても、いつものようにキマらない。だって動かないんだもの!!顔が。しかもキレイに半分だけ。事情を知らない人からしたら、どんなけシャイなあんちきしょうだよ!というくらい無表情でいるしかない。そうなると、不思議な事に感情にも波が立たないようになってくる。「感情だけがリアルで、あとはやっぱりホログラムなんじゃない?素粒子っていうピクセルを視ているだけで、ほんとは宇宙も現実も空っぽなんじゃない?」なんて事ばかり考えていた時に、奇しくも感情と身体の関係性について、身を持って体験したわけです。そんな僕の体験もふまえて、感情と宇宙の関係について考えてみたいと思う。

僕らの魂とか意識とか感情を含んだ、目に見えないエネルギーのことを「精神」としよう。その「精神」がインストールされている器のことを「身体」とする。「身体」は目に視えるし、医学的にもどこにどんな臓器があって、どんな神経があって…というのもある程度はわかっている。ところが精神や心は目に視えないから、それがどんな構造なのかはあまりわからない。哲学でも、心理学でも「精神」や「身体」を正確に定義するのは難しい。目に視えないってことが、とにかく色々な問題を解決出来ない大きな理由なんだよね。僕らは「わたし」という自分の身体や精神の感覚を通してしか、この世界を視ることも感じることも出来ない。特に「精神」の領域は視えないからこそ、さまざまな言語が生まれて表現されてきた。言語にも、目に視えるものを現すものと、インビジブルなものを示すものがあるよね。例えば“愛”とか“重力”とか。これらは、言語という「音」や「文字」の獲得によって存在を感じることができるもの。今、僕らが日常的に使っているパソコンやスマホの画面で視えるものも、プログラミング言語という言語記述によって成り立っているように、この世界は言語によって拡張してきたと言ってもいい。言語化できることが意識の限界と言ってもいいかもしれない。例えば「空気」。もしこの言葉が無かったら?自分の周りに在るこの大切な存在を視ようともしないだろう。古来から、きっとブルース・リーみたいな人が「考えるな、感じろ!」と言ったおかげで、目に視えないものたちは発見されて来たのかもしれない。僕たちニンゲンは「身体」という機器が持つ「五感」というセンサーを使って、「感じた」ものを言語化することで、この宇宙や世界を認識してきた。僕にとって「感じる」ことは「視えないものを認識する」こと。「考える」ことは「認識できるものを言語化すること」。「感じる」という事が先にあって、言語化することで物理次元上の実在となり、「考える」ことができるようになる…ややこしいけど、ブルース・リーは正しかったと言っておこう。聖書では「はじめに言葉ありき」と言うけれど、「感じる」ということが先にあって、言葉は生まれているように思う。その「感じる」ためのある意味アンテナのようなものが脳や神経を持った「身体」で、感じたことを実在化する思考を動かすエネルギーが「精神」だと思うわけです。

何が言いたいかというと、今僕らに用意されているこの宇宙は「精神(感じる→考える)」で観測出来たものの範囲内で存在できているということ。人類がアレコレ感じて言語化出来たぶんだけ広く、言語化出来ていないぶんだけ狭い。言語で記述できることで実感できるものもあれば、言語化出来るがゆえに縛られたりもする。人によって、世界や宇宙の大きさや形は違う。個人の知識やものの見方で、状態が変化する。あなたが在ると感じたからそれは在る。カタチを持っていないものでも、言語化されたり、物質として定義されてしまえば、もうそれある。カタチを持っていないものでも、言語化されたり、物質として定義されてしまえば、もうそれは在る。お金という概念なら札束を。神様という存在なら偶像を。ただの紙キレや木造の価値は変わる。そこにそれが在ると感じたから。それと同じように、感情のふるまい=エモーションが、この宇宙全体の姿形を決定しているかもしれない。言い換えると、この物理次元に現れるものは全て、感情を言語化したものかもしれない。感情としう言語でプログラミングされたビジョンを、僕らは視ているのかもしれない。もしかして、その感情によって動く物質がこの世界を形づくっているとしたら…。よくよく考えてほしい。なぜ原子や電子は動いているのだろうか?素粒子は粒でもあり波でもあるのだろうか?同じ原子や素粒子で構成されているはずのあらゆるものが、別の色や形で視えているのだろう?そして、なぜそれらは“ふるまう”のだろう?
何がそれらを動かしているのだろう?…その正体こそ、感情なのではないか…_
その仮説のもの、次回は「ひも理論」ならぬ「エモ理論」を好き勝手語ることにしたい。


フリーダム・ディクショナリー
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