うつくしいひと第六回 「区別」

柘植伊佐夫 文/写真
渡邊幸江・はなゆき店主

どうしてひとは男女に分かれているのだろうと思うことがあります。生命の仕組みだけで考えれば、性別を分けることなく細胞分裂で個体を分化するような生物も実在すると聞きます。しかし知能のある生物のほとんど(あるいはすべてか)は雌雄がみずからの一部を差し出しひとつにして、子のはじまりを生み出しています。こんな根源的な摂理を拡大して見てみれば異なるものを受容する多様性の意義を嗅ぎ取ることができます。異なる細胞がひとつになり分裂を繰り返すことで知的生物に発育するという過程には皮肉な面白みを感じもします。多様性を許すことによってひとつになるけれども、その発達と深化を促すのは分裂の連鎖です。それはさながら崇高な力によって出でた宗教が歴史によって腐敗し、その中からあらたに超人が生まれ出で、それを崇拝する群衆がふたたび現れ、また腐敗し、というツァラトゥストラのごとき生の輪廻のようです。

なにかを観るとき、意味や価値、機能などを嗅ぎ取って、自分の暮らしのどのフォルダーにおくべきかを自動的に判別します。コップは水を飲むという目的と液体を入れる機能によって価値を持ちます。コップひとつありさえすれば水を飲むには十分であってそれが禅の無一物の思想になる。皆が皆、足りるを知っているわけではなく、さまざまな形や大きさ、デザインのコップも欲しくなる。その虚栄心を煽って消費社会ができあがっている。ひとつで済ませるのか多くを欲しがるのか。そこには欲求の抑制と解放の区別があるだけです。善悪ではありませんから欲求が後押しして、たとえばコツプが水を入れるという本来の目的を捨てて、ランプシェードにもふさわしいじゃないか、割れば刃物にもなるぞ、というような違う目的への転用や順応が突然発見・開発されて次のステージへあがります。

欲求は抑制するべきなのか解放するべきなのか。たとえば大統領予備選の候補者のひとりが、「アメリカの富の半分以上はわずか1%の富裕層が支配しているんです」と主張する一方で、「強い経済こそがアメリカの課題なのだ」と保守層に訴える候補者もいる。コップが一人にひとつだけであっては消費社会は成り立ちませんから、生産力をあげなければ強い経済は難しくなる。かといって富の再分配が不公平なために市民がコップを買えないのでは市場は凍てつく。コップで利益を得ようと裸一貫でやってきた実業家の、「努力しました。それをできる自由もある。儲けました。それを得る権利もある」という論理はもっともで、その利益をもっと拡大したいと金融取引も自由です。それが功を奏して巨額が吸い上げられる。似たような友達がいたから一緒に投資会社でも作りましょう。成功して国も援助してくれる。そうこうするうちに、市民が汗水して働いたお金は再分配されずに資本主義の勝者のコップに自動的にはいる仕組みになっていた。

このようなストーリーのどの部分をとってみても、「なにか間違いがありますか?」と問いただしたところで、「いや、それぞれには別に間違いではありませんね」としか答えられません。自分のなかにも富への欲求はあるし、大統領を選ぼうという市民にも富への欲求があるから再分配の不公平を憂いているわけです。だから現在富を得ている人間が悪いのかといえば、それを得ていない人間の動機となにも変わらない「人間の生きる欲求」において善悪を問えないわけです。欲求に対してその自由を認めるのは基本的な人権に属するところだと思いますし、だからこそフランスの小さな出版社が特定の宗教を揶揄侮蔑するような記事を書いた結果に記者が原理主義者に殺されようとも、その表現者の善悪を問うよりも、人間が主張できる自由を保護しなけれぱならないという原則に帰着するのです。

たとえばここにゴミがあったとして、昨晩の食事の残りや、空になったワインのボトル、読みおえた雑誌や書類、空き缶やらなにやらぐじゃぐじゃになった廃棄物がひとまとめになっている。これをひとつのゴミ袋に入れてしまったらマンションの管理人さんや、行政の係りに、「ちゃんと分別して出してください」と怒られる。「どうしてゴミを分別しなきゃなんないんだよ」という素朴な疑問がわたくしなどの幼稚な人間は沸き上がったりします。まず「ゴミってなんだよ」ということで考えてみると、「不要になったもの」なわけですが、食べ物であれば、腐っちゃって食べられません、というような「防衛本能」が働いて体から遠ざける。これがゴミの基本だと思います。そうやってまず区別する。ひとはその能力を本能的に持っている。これが時代がすすむと、ワインを飲み終えて空になったからボトルはいらない、などの「機能が終わった」ものを区別している。それから可燃物や不燃物を区別する。どうしてかといえば、それが「社会システムに適応」しているからです。もしこれが「可燃も不燃もすべてごっちゃでオッケーです、今のテクノロジーは」となったら分ける必要がない。そしてこれらの区別できるということは人間のあらゆる知的作業の根本でありながら、その維持は訓練を必要とするものなのだと思います。

多様性を認めるというのは可燃物や不燃物をごっちゃにするような意識でもあります。その欲求に規制があるはずはないしあるべきでもありません。しかし多様性の要素が衝突を起こし社会の存続に違和感を生じることもある。それを明るく正しい方向に改善していく過程が世界の進化なのでしょう。「認める・認めない・新しい認め方を見つける」というような知恵を働かせられるのは、そのひとの脳のなかでさまざまな情報を整理整頓する区別ができるからです。差別ではなく、区別。コップの新しい使い方を生み出して、ひとびとに新しい未来を見せられるのは、まず正しい区別ができたうえで、それ以外の隙間はどこにあるのだろうかという柔軟な精神や自由な行動を持てるからです。そのコップが普及したからと言って必要以上に自分の利益を得ようとはしない。その公私の区別、搾取と献身の区別をわかるからです。区別とはそれぞれの要素を「認める力」です。身近にもそのような能力を自然にそなえたうつくしいひとを見かけることができます。

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柘植伊佐夫
人物デザイナー / ビューティディレクター

60年生まれ。ビューティーディレクターとして滝田洋二郎監督「おくりびと」や野田秀樹演出「EGG」「MIWA」などの舞台、マシュー・バーニーの美術映像など国内外の媒体で活動。 08年より「人物デザイン」というジャンルを開拓し、大河ドラマ「龍馬伝」「平清盛」、映画「寄生獣」「進撃の巨人」、舞台「プルートゥ」などを担当。作品のキャラクターデザイン、衣装デザイン、ヘアメイクデザイン、持ち道具などを総合的に生み出している。


フリーダム・ディクショナリー
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