うつくしいひと 第二回「波動」

柘植伊佐夫 文/写真
塚本晋也

b5あまりにうつくしいものを見ると思わず畏怖の念を覚えます。自然物であればその出現の理由がわからずに、人智の及ばない世界があることを畏れ、拝み、ときにはそれに対抗しようと試み、その謎に破れ、学んできました。対象物の大小にかかわらずうつくしさのもつ説得力の背景に貫かれる万物の掟を察して、わたくしたちの存在がいかにはかないものかを諭されて来たのがひとの営みのように思えます。

ふと、これまでに畏れを抱くほどの外見のひとに会っただろうかと記憶をたどることもあります。ひとも自然物としてとらえれば、ひれ伏すほどにうつくしいひとがいても不思議はありません。もちろんうつくしい方には星の数ほどお会いしてきました。しかし奇跡のような容貌をいまだ見てはいませんし、わたくしにとってひとのうつくしさに畏怖を覚えるきっかけは、おそらく外見にはありません。

都心で望むことのできなくなった澄み切った夜空。さらに青白くたゆたう壮麗なオーロラを見上げたいのなら、数時間ほど乗り物をつかい、凍てつく極地に近づけば体験できるでしょう。地球上にある絶景を求めるとき情報や経験則にしたがって、いつ、どこに、どのように行けば遭うことができるかを見出すこともできます。自然のうつくしさは永遠につらなり、時を選ばずうつくしい断面を現します。

天空がうつろうように森羅万象は無常です。ひとの外見も例外なく刻一刻と変わるのですから、いかなるうつくしさを感じる場合にも、「その瞬間」という条件がついてまわります。あるひとを見て、「昔は綺麗だったのに」と現在との違いを憂いたり、「なんて素敵なたたずまいだろう」と歳を経て憧れることもありますが、評価の正負がどうであれそれらはすべて消えゆく瞬間との出会いです。

うつくしさを手にいれたいと腐心するのはひとの性です。その欲求を満たすため衣装や化粧など外見にまつわる技法があります。しかしその効果は数十分、数時間、数日で消える幻です。写真や映画のような表現は、うつくしさを保存する不老の器であってもその夢をぬけ出せば生身の呪縛をうけます。どのような技法も現実の肉体には効用の寿命があります。だからひとは夢の世界を夢見るのです。

ひとのうつくしさを感知するとき、波動のような不可視の力を認めざるを得ない気がします。なぜならまるで外見のうつくしさや技法に頓着しないかの風情でも、尋常ではないうつくしさを発するひとに出会うことがあるからです。柔軟にして強靭、包容しつつ厳密な空気。不条理や矛盾を深く咀嚼して、さながら大理石のようにゆるやかな渦を描き、高貴なエネルギーの色彩を放って見えます。

その波動にはかならず献身や犠牲の心を感じます。肉体に科せられるそれらの精神は本人の存在を純化させてきたのでしょう。ひとつの方向を信じて身を投じる一途さは、高僧が信仰に対するような習慣とともに意図せずうつくしさを磨きます。わたくしはそのようなひとに畏怖を覚えてやみません。生身であるにもかかわらず、いつどこでも自然と違わぬうつくしい断面をそなえているからです。


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柘植伊佐夫
人物デザイナー / ビューティディレクター

60年生まれ。ビューティーディレクターとして滝田洋二郎監督「おくりびと」や野田秀樹演出「EGG」「MIWA」などの舞台、マシュー・バーニーの美術映像など国内外の媒体で活動。 08年より「人物デザイン」というジャンルを開拓し、大河ドラマ「龍馬伝」「平清盛」、映画「寄生獣」「進撃の巨人」、舞台「プルートゥ」などを担当。作品のキャラクターデザイン、衣装デザイン、ヘアメイクデザイン、持ち道具などを総合的に生み出している。


フリーダム・ディクショナリー
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