うつくしいひと 第十六回 「無我」

柘植伊佐夫 文/写真
湯浅永麻 ダンサー/コレオグラファー ページデザイン 小野英作

子供の頃に「どうして自分のことを自分と思うんだろう」なんて思ったりしました。体はただの容れ物であって、「自分と思う自分が本体」なんていうようにも感じていました。ですからそんなことを思っているのは自分だけかしら、でもやっぱり他のみんなにもそれぞれ自分が体の中に入っているのかな、なんて漠然と思ったものです。それぞれの自分は、自分が入った体の一部である眼球を通じて外の世界を眺めているのかな、だから心と体がどこかで分離して、まるで自分という何かと体には隙間があるような感覚さえ抱いていました。

自分という意識がなんなのか大人になった未だにわかりません。けれども「自分」というものが、さらに「自分のもう一つの自分」に語りかける時があります。「君はこうするべきだよ」なんて。もっとも奥底にいる自分はとても根元にいる自我のような気がします。その自我に語りかけられるもう一つの自分は、願望の芽生えや、未だ見ぬ理想や、それを夢見る集合体のような気がしてなりません。ですからその一番根っこの自分である自我がもう一人の自分に語りかけるからこそ、二人の自分を自分の総体としてみるならば、その存在が生命の欲求となって未来を切り拓くようにも思えます。

わたしはこんな人間になりたいわ、だからこの人の教えを学ばなきゃ、とパターン認識を繰り返し、歴史に倣い、できうれば人生に無駄をなくして階段を登ります。そのどこにも自我は存在して、なぜ自分はそれをしているのだろうかという疑問にさえ理由を与え行動を後押ししてくれます。師匠の教えを従順に学ぶのは自分が高みに登ろうという自我があるからで、何かを行う場合には必ずそれが中心に据えられています。視座を変えれば自我は自分に快楽を与えよう、守ろう、痛みをなくそう、という合理性から最短コースをはじきだしますが、学ぶということは逆に自分に痛みを与えることでもあります。

自分は自分である。どのような自分であるか。どのような自分でありたいか。そのような自分のことを考える自我の特性は、誰かから何かを学ぶという体験によって、どこか一部が、あるいはそのほとんどが粉砕されます。なぜなら過去の自我に鉄杭を打ち込むことが学びの本質だからです。そして、「粉砕された自分」が、何もわからないままに学んでいる態度は、むしろ自我の命令よりもそれが失われた無意識の行いとも言えます。ですから師匠から学ぶ過程において、一旦粉砕された自我のままにその学びを進めている姿は一種の無意識の境涯であって、それはそれで犠牲的なうつくしさを湛えます。

しかし粉砕された自我の破片は、学びの時間とともに自己修復を始めて、「新しい自分」を再生します。そこには「新しい自我」があるのかもしれません。もちろんきっと、旧式の自我もどこかの皮質のある部分には残っていてことあるごとに顔を覗かせますが、今や新しい自我が粉砕するタフさを自分自身が兼ね備えています。それが学びや経験が自分自身を高みに登らせて行く価値なのかもしれません。しかし新しい自分=新しい自我でさえ、「自分の可愛い自我」であることにはなんら変わりないわけです。みんな自分は可愛いものです。だからこそ学びの期間にどれだけ自己犠牲の経験を持てたかが、新しい自我の輝きが自分のみならず他人に向けられる要になります。

学びとともに得られる新しい自我や自分は、「無意識のうちに他人のために行動する」という目的のために勝ち取られるべき総体です。どんなに頑張っても人は自我を消すことはできません。なぜなら生きていかなければならないからです。しかし何のために生きているのか、自分のためであると同時に他者のためであり、人間のためであると同時にそれを取り巻く全てとの一体化のためであると直観できる。一途に、懸命に、盲目的に行い、学び続けることによって、ある一瞬の、「自分のない無意識な状態」や「空のような感覚」が現れる。できれば、そのような無我に触れられるように精進すること。そういう人はとてもうつくしいと思うのです。

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柘植伊佐夫
人物デザイナー / ビューティディレクター

60年生まれ。ビューティーディレクターとして滝田洋二郎監督「おくりびと」や野田秀樹演出「EGG」「MIWA」などの舞台、マシュー・バーニーの美術映像など国内外の媒体で活動。 08年より「人物デザイン」というジャンルを開拓し、大河ドラマ「龍馬伝」「平清盛」、映画「寄生獣」「進撃の巨人」、舞台「プルートゥ」などを担当。作品のキャラクターデザイン、衣装デザイン、ヘアメイクデザイン、持ち道具などを総合的に生み出している。


フリーダム・ディクショナリー
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